「松平氏」(のちの徳川氏)の6代目当主「松平信忠」(まつだいらのぶただ)は、「徳川家康」の曾祖父にあたり、器量に欠けるという理由から、家臣によってなかば強制的に隠居させられた人物です。江戸時代に書かれた「三河物語」(みかわものがたり)では酷評の嵐。松平氏屈指の暗君として有名です。しかし、実際に行った治世を見ると、暗愚の一言では割りきれない部分もあります。隠居にまつわる諸説をふまえながら、松平信忠の生涯を解説。武勇に優れた父「松平長親」(まつだいらながちか)と、歴代屈指の名君と称される次代「松平清康」(まつだいらきよやす)に挟まれた「谷間の当主」の人物像を探ります。
「松平信忠」(まつだいらのぶただ)は、「安祥松平家」(あんじょうまつだいらけ)2代目当主であり、実質的な松平氏5代目当主を務めた「松平長親」(まつだいらながちか)の長男として、1490年(延徳2年)に生まれました。
家督相続は1503年(文亀3年)頃と言われており、10代前半から当主の座に就いていたことが分かっています。
とは言え、実質的な最高権力者は後見人となった父・松平長親。1508年(永正5年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の「今川氏」(いまがわし)が約10,000の大軍で攻めてきたときも、戦いの指揮は松平長親が執りました。つまり、政治も合戦も父の庇護の下で行われていたのです。
治世についてはほとんど分かっていないものの、松平信忠の性格は江戸時代の書物「三河物語」(みかわものがたり)に多々記されています。当主として必要な「武勇・情愛・慈悲」の3つがいずれも欠けている「無器用」(ぶきよう:当主としての器量がない)な人物とのこと。家中からの評判も極めて悪く、あまりに暗愚であることから家中が分裂し、弟の「松平信定」(まつだいらのぶさだ)との対立も引き起こしています。このときは松平信忠が先手を打ち、弟に与する家臣を粛清するなどの手腕を見せましたが、家中の動揺は収まりませんでした。
やがて一門衆である、「松平郷松平家」(まつだいらごうまつだいらけ)3代目当主「松平勝茂」(まつだいらかつしげ)が隠居を求めると、家臣がこぞって賛同。「対応を改めないと見限って自領に引き篭る」という訴状まで作成し、宿老の「酒井忠尚」(さかいただなお:徳川家康の重臣・酒井忠次[さかいただつぐ]の曾祖父)に提出させました。
こうして1523年(大永3年)に松平信忠は隠居し、わずか13歳の嫡男「松平清康」(まつだいらきよやす:徳川家康の祖父)へ家督が譲られたのです。評定は粛々と行われ、松平信忠は特に争うこともなく、素直に決定を受け入れたと言われています。
松平信忠が本当に無器用な人物だったのかは謎です。実は、松平信忠の実績として判明している事柄の多くは、ほとんどが寺社絡み。「妙心寺」(みょうしんじ:愛知県岡崎市)をはじめ、多くの寺社に寄進や制札を出した記録ばかりが残っているのです。
また今川氏との戦いによる戦死者を供養するために「称名寺」(しょうみょうじ:愛知県碧南市)に土地を寄進していることから、情愛や慈悲に欠けるという評価も矛盾します。つまり、三河物語に書かれた無器用の3大要素(武勇・情愛・慈悲)のうち、本当に欠けていたのは武勇であったと言われているのです。
当時は今川氏が再び侵攻してくる恐れもあり、家臣達が当主にもっとも期待していたのは、軍事面における指揮能力でした。しかし、今川氏の侵攻時は父・松平長親が奮戦したものの、松平信忠の武功はほとんどなし。一説によれば、家臣達は合戦における指導力の不安から、当主の変更を求めたとも言われているのです。
なお、武勇以外に失脚の要因となったのが政治面の配慮の足りなさ。壊滅した岩津松平家の遺領配分などで一門衆と衝突しており、それらの諸問題も強制的な隠居の引き金になったと考えられています。
家督を譲ったのち、松平信忠は「大浜郷」(おおはまごう:愛知県碧南市)に移り、父・松平長親に先立って1531年(享禄4年)に生涯を閉じました。
葬儀は松平氏の菩提寺「大樹寺」(だいじゅじ:愛知県岡崎市)か、もしくは大浜にある称名寺のいずれかで執り行われたと考えられています。
墓が残っているのは大樹寺の境内。松平長親や松平清康の墓などとともに、ひっそりと立っています。