家臣によって隠居させられた「松平信忠」(まつだいらのぶただ)のあとを継ぎ、「松平氏」(のちの徳川氏)の勢力を急速に拡大させたのが、「徳川家康」の祖父でもある7代目当主「松平清康」(まつだいらきよやす)です。積極的な武力行使により、わずかな期間で三河国(現在の愛知県東部)をほぼ統一することに成功しました。しかし、戦の途中で家臣に襲われ、志半ばで没してしまいます。いったい松平清康はどのように三河統一を推し進め、そしてなぜ殺されてしまったのでしょう。松平氏屈指の名君とも称される人物の生涯に迫ります。
「松平清康」(まつだいらきよやす)は、「安祥城」(あんじょうじょう:愛知県安城市)を拠点とする「安祥松平家」(あんじょうまつだいらけ)3代目当主であり、事実上松平氏の6代目当主「松平信忠」(まつだいらのぶただ)の長男として誕生。
生年は1511年(永正8年)で、わずか13歳で家督を相続しています。当時、松平宗家だった「岩津松平家」(いわづまつだいらけ)が戦に敗れて衰退してしまい、安祥松平家が事実上の宗家と目されていました。
ここで松平清康は、三河国(現在の愛知県東部)に点在する松平氏を一本化する動きを見せます。安祥松平家に次ぐ力を有していた「岡崎松平家」(おかざきまつだいらけ)を攻め、当主「松平信貞」(まつだいらのぶさだ)を降伏させたのです。このとき、安祥松平家の居城を「岡崎城」(おかざきじょう:愛知県岡崎市)へ移し、三河国制圧の拠点としました。
松平氏当主の地位を確固たるものにした松平清康は、さらに勢力を拡大すべく近隣の国人領主の領国へ次々と侵攻。「足助城」(あすけじょう:愛知県豊田市)や「小島城」(おじまじょう:愛知県西尾市)、「宇利城」(うりじょう:愛知県豊橋市)を攻め落とすと、これまで手つかずだった東三河地域の平定にも乗り出しました。
1529年(享禄2年)には、「三河牧野氏」(みかわまきのし)の「吉田城」(よしだじょう:愛知県豊橋市)などを攻略し、ほぼ三河国を統一することに成功したのです。やがて尾張国(現在の愛知県西部)にも出兵して岩崎(愛知県日進市)や品野(愛知県瀬戸市)の領地を獲得。戦国大名として近隣の国々からも恐れられる一大勢力へと発展を遂げました。
見事に松平氏を飛躍させた松平清康ですが、一方で内紛も抱えていました。方々で恨みや嫉妬を買っていたのです。
特に深刻だったのは叔父「松平信定」(まつだいらのぶさだ)との確執。父・松平信忠の弟にあたり、祖父「松平長親」(まつだいらながちか)から溺愛を受けていた人物で、松平清康の成功を快く思っていなかったのです。
事件が起こったのは1535年(天文4年)、松平清康が尾張国を治める「織田氏」の領土へ侵攻していたとき。「守山城」(愛知県名古屋市)の陣中にて、松平清康の家臣「阿部定吉」(あべさだよし)が織田方へ寝返るという噂が立ちます。その噂を耳にした阿部定吉は、反逆の意図がない旨を誓紙にしたため、息子「阿部正豊」(あべまさとよ)に託しました。もし自分が濡れ衣で殺されたら、誓紙を主君・松平清康に渡すよう指示していたのです。
ある日、陣中で馬が暴れる騒ぎが起こると、阿部正豊はとっさに「父が殺された」と勘違い。逆上して松平清康を襲撃したのです。この「森山崩れ」により、松平清康はわずか25歳で死去。
しかし、事件の動機があまりに不自然なため、一説によると裏で糸を引いていたのは松平信定だったとも言われています。実際、事件後にわずか10歳の「松平広忠」(まつだいらひろただ:徳川家康の父)が後継者になると、松平信定は反旗を翻して岡崎城をはじめとする松平氏の所領を強奪。松平広忠を三河国から追放してしまったのです。これにより松平氏は隣国・駿河国(現在の静岡県中部・北東部)を治める「今川氏」や織田氏の介入を許し、衰退していきました。
ちなみに、松平清康殺害に使われた日本刀は、伊勢国(現在の三重県北中部)の刀工一派による「千子村正」(せんごむらまさ)とされています。徳川氏に仇なす日本刀として恐れられた「妖刀村正」の伝説は、ここからはじまりました。そののち、松平広忠や徳川家康の正妻「築山殿」(つきやまどの)を殺害した日本刀でもあり、徳川家康の嫡男「松平信康」(まつだいらのぶやす)が切腹する際に使用した日本刀としても知られています。