徳川氏家臣であり、その分家の当主でもある「松平家忠」(まつだいらいえただ)は、「徳川家康」に仕えて数々の功績を挙げた武将です。任務の領域は幅広く、戦闘から土木工事、外交に至るまで様々。徳川一門でも有数の万能武将として名を馳せました。一方で、筆まめな一面を持っており、約17年間にわたり「家忠日記」という日記を執筆。当時の武士達の日常が分かる資料として、現在も重宝されています。徳川氏の発展とともに松平家忠の生涯を解説。やがて大名にまで上り詰めた軌跡をたどります。
「松平家忠」(まつだいらいえただ)は、1555年(弘治元年)に「深溝松平家」(ふこうずまつだいらけ)3代目当主「松平伊忠」(まつだいらこれただ)の長男として生まれました。
深溝松平家は「松平氏」を名乗っていた徳川氏の分家で、そのなかでも「三河十八松平家」(みかわじゅうはちまつだいらけ)に数えられる家柄。つまり、徳川氏屈指の一門衆なのです。
そんな深溝松平家を松平家忠が継いだのは、21歳。1575年(天正3年)の「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で父・松平伊忠が戦死したことで家督相続が行われました。
当時の徳川氏は遠江国(現在の静岡県西部)をめぐって「武田氏」と争っており、遠江国内に多くの城砦を建設。松平家忠は土木技術を評価され、「牧野原城」(まきのはらじょう/別名・諏訪原城:静岡県島田市)や「横須賀城」(よこすかじょう:静岡県掛川市)、「浜松城」(はままつじょう:静岡県浜松市)などの普請に従事しました。
また、武田氏滅亡後に「織田信長」が富士山見物のために徳川氏領内を訪れた際には、その道沿いの整備も担っています。
1582年(天正10年)に「本能寺の変」が起こった際、堺(現在の大阪府堺市)から三河国(現在の愛知県東部)へ帰還した「徳川家康」とともに、甲斐国(現在の山梨県)や信濃国(現在の長野県)へ出陣。松平家忠は「高島城」(たかしまじょう:長野県諏訪市)攻撃などに参加しています。また、同じく甲斐国と信濃国を狙っていた「後北条氏」(ごほうじょうし)への備えとして砦を普請するなど、引き続き土木事業でも力を発揮しました。
「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)の普請に従事するなど、家中随一の土木技術を持つ人物として名を高めていった松平家忠ですが、一方で軍事指揮官としても活躍の場を拡大。1584年(天正12年)に「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)との間に起こった「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)において、要衝の地である小牧山(現在の愛知県小牧市)を守備しました。
そののち、講和が結ばれると、羽柴秀吉から人質として送られてきた「大政所」(おおまんどころ:豊臣秀吉の母)の出迎え、そののちの豊臣政権への従属を示すために上洛する徳川家康の見送りと出迎えなど、外交行事にも関与。つまり、徳川氏一門における万能武将という立ち位置だったのです。
1590年(天正18年)、徳川家康が関東へ移封されると「忍城」(おしじょう:埼玉県行田市)に入り、10,000石の領地を与えられます。しかし、実はこのとき、本来は徳川家康の四男「松平忠吉」(まつだいらただよし)が入城する予定でしたが、まだ幼かったために松平家忠が先に領内統治を行い、内政がひと段落したところで松平忠吉へ引き継がれるという形式が執られたのです。徳川家康から統治における手腕をも買われていたことがうかがえます。
やがて、松平家忠は小見川(現在の千葉県香取市)へと移封され、正式に大名へ昇進。1594年(文禄3年)には、今までの城普請の腕を買われて「伏見城」(ふしみじょう:京都府京都市)の普請を命じられており、豊臣秀吉とも直接対面を果たしています。
豊臣秀吉の死後、徳川家康は「石田三成」(いしだみつなり:豊臣家の重臣)らと対立し、一触即発の事態へと発展しました。すると徳川家康は、松平家忠や「鳥居元忠」(とりいもとただ)に伏見城の守備を命令。
こうして1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)が勃発したのです。このとき、徳川勢はわずか2,000人余で数万の敵に対峙し、10日以上にわたって伏見城に籠城。鳥居元忠が討死し、松平家忠も自らが普請した城とともに46歳で最期を迎えました。
後日、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、松平家忠らの命がけの働きを称え、嫡男の「松平忠利」(まつだいらただとし)に、深溝松平家伝来の地である深溝(ふこうず:現在の愛知県額田郡幸田町)を与えました。松平家忠の墓も、菩提寺である「本光寺」(ほんこうじ:現在の愛知県額田郡幸田町)に建立。現在は国の史跡に指定され、多くの参拝客が訪れています。