「松平忠直」(まつだいらただなお)は、類いまれな武勇を誇った人物です。血筋も「徳川家康」の孫にあたり、恵まれた生涯を送るはずでした。しかし、血気盛んな性格が災いして問題を乱発。やがて取り返しのつかない事態を招いてしまい、強制隠居へ追い込まれてしまいました。いったいなぜ、松平忠直は哀れな末路をたどることになったのでしょう。その生涯を振り返りながら、暗転していった理由をひも解きます。
「松平忠直」(まつだいらただなお)は、1595年(文禄4年)に「徳川家康」の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)と、側室「清涼院」(せいりょういん)の間に生まれました(正室の鶴姫[つるひめ]とする説もあり)。
父は徳川家康の子息のなかで最年長でしたが、祖父・徳川家康から冷遇を受け、「豊臣秀吉」や「結城晴朝」(ゆうきはるとも)のもとへ養子入り。松平忠直も、徳川宗家からは庶流と見なされていました。
ところが、1603年(慶長8年)に徳川家康の三男で、江戸幕府2代将軍である「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に謁見すると、状況が好転。松平忠直は大いに気に入られ、わずか13歳にして越前国(現在の福井県北東部)670,000石を拝領したのです。1611年(慶長16年)には、徳川秀忠の娘「勝姫」(かつひめ)を正室に迎えており、順風満帆な青年期を過ごすようになりました。ちなみに松平忠直の「忠」の文字は、徳川秀忠から賜っており、徳川一門でも別格の扱いを受けていたことが分かります。
こうして「越前松平家」(えちぜんまつだいらけ)の当主として、君臨するようになった松平忠直ですが、家中には問題が生じていました。家臣の多くは父・松平秀忠に取り立てられた者や代々徳川家に仕えてきた者、そして新たに登用された者などが混在し、主導権争いが繰り広げられていたのです。
そんな折、農民同士の争いを火種に、譜代の老臣「本田富正」(ほんだとみまさ)と新参の重臣「今村盛次」(いまむらもりつぐ)が対立し武力衝突。1612年(慶長17年)に、「越前騒動」(えちぜんそうどう)が起きてしまいました。このときは、徳川家康・徳川秀忠親子が直々に裁定し、最終的には本田富正派が勝利して収まりますが、これにより松平忠直の評価は失墜。力量に欠けると判断され、国政は本田富正が主導するようになるのです。
政治力の欠如を露呈してしまった松平忠直は、挽回の機会をうかがい続けました。若い頃から武勇と胆力には自信を持っており、戦場での槍働きができれば、再び将軍家の評価も得られると踏んでいたのです。
そこで起こったのが、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」。越前松平家は、父・松平秀康が豊臣秀吉の養子だったこともあり親豊臣派が多かったものの、松平忠直は反対派を押し切って、意気揚々と江戸幕府方として参陣しました。
しかし気合いが空回りし、なかなか戦果が挙げられません。この大坂冬の陣では、「真田丸」(さなだまる)を守る敵将「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)と対峙して果敢に突撃したものの、計略にはまって大損害。のちに命令違反を叱責されました。
さらに雪辱を期して参陣した1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」では、命令を遵守するために戦闘を慎んでいたことで、動きが悪いと再び叱責。たび重なる失態を演じてしまいます。
ところが、大坂夏の陣最大の合戦となった「天王寺口の戦い」(てんのうじぐちのたたかい)で名誉挽回。命令違反を犯して抜け駆けしたことが功を奏し、真田幸村をはじめ、「大谷吉治」(おおたによしはる)や「御宿政友」(みしゅくまさとも)など、名だたる敵将を討ち取ったのです。さらには、大坂城(現在の大阪城)へ一番乗りを果たすという功績も挙げ、祖父・徳川家康に激賞されました。
そののち、「二条城」(にじょうじょう:京都市中京区)において諸大名らの前で徳川家康から直接、茶器「初花」(はつはな)を授けられ、加えて官位も昇進。ところが、21歳の松平忠直は茶器や官位にまったく関心がなく、欲していたのは領地でした。「領地の加増がなければ家臣達に報いることができない。官位などにごまかされない」と不満を漏らし帰途に就いたと言われています。ちなみに初花とは、「織田信長」や豊臣秀吉が愛した茶器で、天下に知られる名品です。
大坂夏の陣における論功行賞を境に、松平忠直は目に見えて乱心がひどくなりました。酒色に溺れ、徳川秀忠の娘・勝姫という正室がいながら多くの妾を囲うようになり、徐々に精神が乱れていったのです。
あるとき、父・結城秀康を追って殉死した家臣「永見右衛門」(ながみうえもん)の未亡人を所望して断られると、腹いせに息子共々殺害。また、寵愛する妾が望むがままに、高所から側近を突き落としたり囚人を切り刻んだり、狂気的な行動を連発します。果ては勝姫が邪魔になり、殺害計画まで立案する始末。
この段に至って、徳川秀忠はついに不行状を咎め、隠居を命令。こうして松平忠直は1623年(元和9年)に藩主の座を追われ、出家して豊後国(現在の大分県)「府内藩」(ふないはん)へ配流(はいる:流罪にすること)されたのです。一説によれば、隠居の命令を拒んで江戸幕府と一戦交えようと考えた松平忠直を、母・清涼院が必死に説得したとも言われています。
府内藩へと流された松平忠直は、現地で謹慎を命じられたものの5,000石を与えられ、比較的自由な晩年を過ごしました。
当初は海沿いの荻原(現在の大分県大分市)に住んでいたものの、船を使って逃亡することを防ぐために津守(現在の大分県大分市)に移され、赦免されないまま1650年(慶安3年)に56歳で死没。墓は「浄土寺」(じょうどじ:現在の大分県大分市)と「長久寺」(ちょうきゅうじ:現在の福井県鯖江市)の2ヵ所に建立されています。
ちなみに、松平忠直が府内藩へ流された越前松平藩(越前藩とも:現在の福井県)は、辛うじてお取り潰しを免れ、領地削減の上で松平忠直の弟「松平忠昌」(まつだいらただまさ)が相続。幕末まで大名家としての命脈を保ち続けました。