1549年(天文18年)に鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、天皇に謁見して日本でのキリスト教布教の許可を得るため、翌1550年(天文19年)10月に長崎の平戸から山口、堺を経由して京都へ向かいました。ザビエルらはその土地の権力者に会う際、必ずスペインやポルトガルの調度品や鉄砲を献上していたとされ、このときにも精巧な歯車時計、クラヴォ(鍵盤楽器)、老眼鏡、望遠鏡、鏡、鉄砲、カットガラス、金襴緞子(きんらんどんす:金糸や金箔を使用した高価な織物)、織物、ぶどう酒、書籍、絵画、陶器といった13種にのぼる高価な献上品が用意されていました。結局、ザビエルは天皇に謁見することができず、これらを天皇に献上することなく平戸へ戻ってきましたが、それまでの日本では見ることも使われることもなかったこれらの珍しい品々は、襦袢(じゅばん)やマント、ひだ襟、軽衫(かるさん)といった衣類とともに武家や町人に広く受け入れられるようになります。 ここでは南蛮ブームの到来とともに親しまれたファッションアイテムと切り離せない小物やアクセサリーの他、当時の日本人を魅了したに違いないスイーツなども含めてご紹介しましょう。
南蛮貿易以降、次第に広まっていった西洋の風習のひとつが喫煙です。たばこの伝来については諸説ありますが、たばこや喫煙について触れた絵画や文献が多く見られるようになるのは安土桃山時代の後期から江戸時代の初期であり、南蛮貿易が開始された時期よりも40年ほどあとということになります。
高価な嗜好品であるたばこを庶民達が簡単に入手できるようになるまでには、それだけの年月が必要だったということでしょう。そういった理由もあり、伝来した当初はたばこを嗜(たしな)むことは上流階級の人々にとってのステイタスシンボルであり、喫煙に必要な「煙管」(きせる)は最先端のファッションアイテムであったに違いありません。
たばこを吸うために欠かせない道具というだけでなく、煙管は装身具としても様々なデザインが考案されていました。刻んだ葉たばこを詰める「火皿」(ひざら)、パイプ部分の「羅宇」(らお/らう)、口にくわえる部分の「吸い口」という3つのパーツで構成され、伝来当初は全長70cmから1mの長い物が多かったようです。
一般的に火皿と吸い口には鉄・銅・真鍮(しんちゅう)など、羅宇は竹や樹皮などが素材として用いられました。時代を経るに連れて葉たばこがより細かく刻まれるようになり、それに伴って先端の火皿はコンパクトに、長さも携帯しやすいよう20~30cmの短い物が多くなっていったのです。
また、町人が日本刀の携帯を禁止されていた江戸時代には、日本刀による攻撃など、いざというときの護身のために総鉄製の「喧嘩煙管」(けんかきせる)と呼ばれる煙管も作られるようになりました。煙管を愛用した戦国武将のひとりとして、伊達政宗がよく知られています。
当時のたばこは健康に良い薬と考えられており、自身の健康に気を配っていた伊達政宗は朝・昼・晩の3回、規則正しく喫煙していたと言われています。
キリスト教の伝来とともに日本にやって来たロザリオ(カトリック教徒が祈りに使う数珠)も、南蛮ファッションを語るときに欠かせないアイテムのひとつです。
ロザリオはキリスト教の中でもカトリックの信徒が使う聖具で、その形状から仏教の数珠(じゅず)と同じような役割を持つ物と思われがちですが、ミサなどの典礼において携帯が義務付けられているわけではありません。あくまでも個人が黙想や祈りを捧げるときに用いる「祈りの道具」です。
形状としてはネックレスに近いように見えますが、本来ロザリオは首にかける物ではなく、手に巻き付けて使う物です。あしらわれた珠の数にも意味があり、信徒(しんと:宗教の信者)はひとつひとつの珠を順に手に取り、カウントしながら祈りを捧げます。
「主の祈り」を1回、「聖母マリアへの祈り」を10回、「栄唱」を1回唱えるのを1セット(1連)として、計5セットで1周(一環)するように珠が並んでおり、これを総じて「ロザリオの祈り」と呼びます(より携帯性を考慮した一連のみのコンパクトなロザリオなどもあります)。
現在も敬虔なカトリック信徒の間では常にロザリオを持ち歩き、空いた時間などでロザリオの祈りを唱えることが習慣となっています。珠の材質は木や水晶、ガラスなど様々で、十字架や中心部に配されたメダイ(聖人などの肖像が刻まれたメダル)のデザインもそれぞれに異なるため、カトリック信徒にとってロザリオは昔からファッションアイテム的な意味合いを持ち合わせていました。
それは南蛮貿易によって初めてロザリオを見た信者ではない日本人にとっても同じで、色とりどりのロザリオは多くの人の目を引き付けたようです。当時の南蛮文化の活況を描いた数々の「南蛮屏風」(なんばんびょうぶ)には、露店でロザリオが売られ、それをアクセサリーとして首からかける人々の様子などが描写されています。
南蛮貿易によって日本にもたらされた品々のなかで、現代人にも欠かせないアイテムとなっているのが眼鏡です。
京都へ向かうも天皇に謁見できなかったザビエルが、その後現在の山口県にあたる周防国(すおうのくに)に立ち寄り、当地の領主だった大内義隆(おおうちよしたか)に眼鏡を含む品々を献上したことから「日本人初のメガネ男子は大内義隆か?」という説がありますが、これについては確かな記録が残っているわけではありません。
眼鏡を使用していた戦国武将として、意外に知られていないのが徳川家康です。徳川家康を祀る静岡の「久能山東照宮」(くのうざんとうしょうぐう)には、「目器」(めき)と呼ばれる徳川家康の遺品が所蔵されています。
現在の一般的な眼鏡とは異なり、手持ちの鼻眼鏡風の形状で、日本に残る最も古い眼鏡のひとつと言われています。鼈甲(べっこう)縁にスペイン製のガラスレンズがはめ込まれたこの眼鏡は、1611年(慶長16年)にスペインの探検家であるセバスティアン・ビスカイノが献上した物とされており、国の重要文化財に指定されています。
実際の徳川家康がこの眼鏡を必要とするほど視力が衰えていたのかは分かりませんが、西洋の鎧をアレンジした南蛮胴(なんばんどう)なども遺品として残されている徳川家康ですから、まだほとんど知られていない眼鏡を誇らしげに使用する姿は想像に難くありません。
ファッションからは話が逸れますが、南蛮貿易とともに人気を博したのが甘味、現代で言うスイーツです。野菜と魚を主食としてきた当時の日本人にとって、甘い物と言えば果物など自然の食物に限られていました。ポルトガルの宣教師達は、砂糖やそれを用いたスイーツを布教活動に使いました。
いまや長崎の名物として定着しているカステラをはじめ、カステラを卵黄に浸して高温の蜜で揚げてグラニュー糖をまぶしたカスドース、織田信長もお気に入りだったというコンペイトウ、小麦粉と砂糖を混ぜ合わせて焼いたボウロやビスケット、砂糖に飴を加えて煮詰めた装飾菓子のアルヘイトウなど、初めて口にする様々なスイーツに、多くの日本人が魅了されたことは間違いないでしょう。
当時も現代人と同じように、「〇〇のカステラがおいしいそうだよ」、「〇〇のコンペイトウはすぐに売り切れるから並んだ方が良いよ」といった会話があちこちで交わされていたのではないでしょうか。