「前田利常」(まえだとしつね)は、圧倒的な知名度を誇る戦国武将「前田利家」の四男で、加賀百万石の地盤を固めた名君です。「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほど加賀藩第2代藩主として善政を敷き、「徳川家康」からの勢力を警戒しながらも加賀藩を大きく繁栄させました。江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」の娘を娶り、松平姓も与えられていた前田利常ですが、わざと鼻毛を伸ばして「うつけ」を演じるなど、奇異な行動歴を多く持つ人物でもあります。前田利常の生涯を振り返るとともに、妻の死に直面した際の前田利常の恐ろしい行動をご紹介します。
「前田利常」(まえだとしつね)は、1594年(文禄3年)、当時56歳の前田利家と側室「千代保」(ちよぼ:のちの寿福院)の間に誕生しました。
生母の千代保は、もともと正室「まつ」の侍女として前田家に仕えていた女性ですが、前田利家が「文禄の役」で肥前国「名護屋城」(なごやじょう:佐賀県唐津市)に陣を構えていた際に、身辺の世話係として派遣された千代保をお手付きにしたことが側室となるきっかけだったと言われています。
幼名は「猿千代」と名付けられ、幼少時は異母姉「幸姫」(こうひめ)の夫である「前田長種」(まえだながたね)のもとで養育されました。
猿千代が生まれてから4年後にようやく父子は初対面を果たしますが、この直後に前田利家は病死してしまったのです。
1600年(慶長5年)、北陸地方における「浅井畷の戦い」(あさいなわてのたたかい)で、前田利家の跡を継いだ長男「前田利長」(東軍)と「小松城」(石川県小松市)城主「丹羽長重」(西軍)が激突します。
東軍は西軍に勝利しましたが、その講和条件として猿千代が丹羽長重の人質に差し出されたのです。その後、人質生活を終えた猿千代は前田利長の養子となり、後継者としての道を歩み始めます。
前田利常が前田家の後継候補となると、幼いながらに第2代将軍である徳川秀忠の娘「珠姫」(たまひめ)と結納を交わします。当時、珠姫はまだ3歳で、この縁談は前田家と徳川将軍家による政略的なものでした。
そして、1605年(慶長10年)に前田利長が隠居すると、前田利常は家督を継承して加賀藩第2代藩主となります。1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」では、徳川方で最大の軍を率いて「真田丸の戦い」(さなだまるのたたかい)に挑みました。
しかし、この戦いで、前田利常は「徳川家の姻族として戦功を挙げなくては」と空回りし、独断で動いたことにより敗北を喫することに。翌年1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」では、汚名返上のために前田軍で多数の首級を挙げ、徳川方の勝利に貢献します。戦後、徳川家康から加増転封の提示を受けますが、前田利常はこの恩賞を辞退し、それまでの領地に留まることを選びました。
その後も、何かと徳川家康から危険視されていた前田利常ですが、江戸幕府とうまく付き合いながら加賀藩の地盤固めに注力していきます。また、珠姫との間に生まれた長男「前田光高」(まえだみつたか)にも、第3代将軍「徳川家光」の養女「大姫」(おおひめ)を娶らせるなど、将軍家との関係を強固なものにしていきました。1639年(寛永16年)には長男の前田光高に家督を譲り、前田利常は小松城で隠居生活を送り始めます。
隠居後の1642年(寛永19年)、四女「富姫」(ふうひめ)が「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)の猶子(ゆうし:実親子ではない2者が親子関係を結んだときの子)である「八条宮智忠親王」(はちじょうのみやとしただしんのう)の妃となり、前田家は皇家とも姻戚関係となります。
この縁組で、前田利常は「桂離宮」(かつらりきゅう:京都市西京区)修繕などの援助を行い、皇家との親交を深めるなかで朝廷文化にも触れることに。この経験をもとに、加賀藩でも新たな文化の風を吹かせ、「加賀ルネサンス」と呼ばれる華やかな文化を振興させました。
しかし、1645年(正保2年)、3代藩主である長男の前田光高が急死してしまい、孫の「前田綱紀」(まえだつなのり)が3歳で家督を継ぐ事態に。隠居していた前田利常は、幕命で幼君の後見人として藩政に復帰し、再び加賀藩の体制を築きながら文化・産業の振興に注力していったのです。こうして、前田利常は加賀藩の名君として120万石の所領を守り抜き、1658年(万治元年)に66歳で生涯の幕を閉じました。
前田利常と正室の珠姫は政略結婚でしたが、三男五女の子宝にも恵まれ良好な夫婦関係を築いていました。しかし、珠姫の乳母は将軍家から外様筆頭の大名家へ嫁がせたことに不安を抱き、幕府の情報漏洩を恐れていたのです。
そこで、珠姫の乳母は、1622年(元和8年)に五女「夏姫」が生まれた際、出産後の体調不良を口実に珠姫を隔離してしまいます。何も知らずに孤立させられた珠姫は、出産後に前田利常が会いに来なくなったことを気に病み、愛する夫に見捨てられたと誤解して精神に不調をきたしてしまいました。
出産後まもない時期だったということもあり、珠姫はこのまま衰弱死してしまうことに。死の間際、駆け付けた前田利常は珠姫に起こっていた状況を把握します。乳母の行動に怒り狂った前田利常は、この乳母を「蛇責め」で処刑したのです。
蛇責めとは、古くから日本で行われていた処刑方法で、戦国時代にはキリシタンに対する拷問としても活用されていました。蛇責めの方法は、手足を縛った処刑人を掘った穴や大きな桶に入れ、その中に大量の蛇や毒虫を投入し、閉じ込めて毒死させるというもの。愛する妻を失った前田利常の怒りと悲しみは、計り知れないものだったのでしょう。