千利休(せんのりきゅう)は、「茶道(茶の湯)」を確立した人物として有名ですが、茶道を通じて織田信長や豊臣秀吉の側近となり、政治的影響力を持った人物としても有名です。千利休は、豊臣秀吉の 逆鱗に触れて切腹を命じられ、無念の生涯を閉じますが、千利休による茶道の教えは、今もなお受け継がれています。ここでは、現代の日本茶道の源流である「茶の湯」を確立した「千利休」について、詳しくご紹介します。
「千利休」は、1522年(大永2年)に和泉国堺(現在の大阪府)で、魚問屋を営む「田中与兵衛」(たなかよひょうえ)と「月岑妙珎」(げっしんみょうちん)の子として生を受け、幼名を「与四郎」と言いました。千利休の祖父にあたる「田中千阿弥」(たなかせんあみ)は、8代将軍の足利義政のお茶友達であったことから、千利休は幼い頃から茶に触れていたとされています。
千利休は17歳になった頃、茶の湯を習い始め、「北向道陳」(きたむきどうちん)や「武野紹鴎」(たけのじょうおう)に師事。法名(仏弟子の名)を「千宗易」(せんのそうえき)、号を「抛筌斎」(ほうせんさい)と名乗りました。
織田信長が和泉国堺を制圧しようとした際、堺で「茶の湯」が流行っていたことから織田信長がこれに着目。千利休が織田信長の前で茶をたてたことによってその腕前が認められ、茶頭として起用され、織田信長の茶会を取り仕切るようになりました。(織田信長が茶の湯にこだわった理由のひとつとして、武士達に礼儀や作法を身に付けて欲しかったからと言われています。)
その後、本能寺の変で織田信長が討たれると、後継者である豊臣秀吉に仕えることとなります。豊臣秀吉が茶会を政治手段として活用するようになったことから、千利休を側近(相談役)として扱うようになり、最終的には、3,000石を領するほどに出世。その後、全国の大名が弟子入りするなど、名実ともに天下一の茶人となっていきました。
豊臣秀吉の嫡男である鶴松が病気で亡くなった頃を境に、豊臣秀吉と千利休の関係は悪化していきます。千利休の政治的影響力が強くなるにつれ、これを危惧する声が豊臣政権内で上がり始め、千利休は次第に孤立していったのです。
そして1591年(天正19年)、千利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられます。(大徳寺改修にあたり、自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を豊臣秀吉に通らせたことが逆鱗に触れたとの説が有力)切腹を命じられた千利休は、豊臣秀吉の使者達に対し「茶室にて茶の支度ができております」とお茶をたてたあと、切腹したと言われています。
千利休は、どのようにして茶道を大成させたのか?茶の湯に込めた思いや、それを受け継いだ弟子達、茶道の流派などについて、詳しくご紹介します。
千利休の茶の湯が大成したのは、豊臣秀吉が関白になった際の茶会で、天皇に茶を献上し、千利休の名を下賜されたことがきっかけです。
その後、豊臣秀吉は、千利休とともに様々な茶会を開催し、千利休の名が広まっていきます。
その後、千利休は茶道に留まらず、千利休が考案した茶道具も多く造られるようになりました。専門の職人に命じて作らせた「楽茶碗」は、轆轤(ろくろ)を用いず、両手で土を立ち上げていく手捏ね(てこね)と呼ばれる技法を用い、へらで無駄を削り落とし造形する物。千利休の「わび」の美と心を象徴した物となっています。
千利休が茶の湯に込めた思いは、まさにわびの精神です。千利休にとって茶の湯は、「平等の立場で、純粋にお茶を楽しむ場」でした。公家、武士、農民、商人、百姓など、様々な階級があっても、茶の湯では皆平等に参加できるという精神を持っていたのです。
千利休は、それを体現するために、800席を超える「北の大茶湯」を開催したり、茶室の入口となる「にじり口」をわざと小さくしたりしました。にじり口を小さくしたのは、武士であっても日本刀を置き、頭を下げなければ入れないように意図したためです。
千利休は、自身が大成させた「わび茶」の精神を世に広めるために、非常に多くの弟子を取りました。そんな弟子のなかでも、最も名を知られている7人の弟子(蒲生氏郷、細川忠興、古田重然、芝山宗綱、瀬田正忠、高山長房、牧村利貞)を「利休七哲」(りきゅうしちてつ)と呼び、これに、織田長益、千道安、荒木村重の3人を加えて「利休十哲」(りきゅうじってつ)とも呼びます。
千利休は多くの弟子を取っていたことや、千利休以外の流派も存在していたことから、現代には非常に多くの茶道の流派が存在しています。
各流派のなかでも、特に有名なのは「三千家」です。千利休の流れをくむ流派であり「表千家」(おもてせんけ)、「裏千家」(うらせんけ)、「武者小路千家」(むしゃのこうじせんけ)の流派のことを言います。これらの流派は、同じ千利休の茶の湯を源流としているものの、微妙に作法や茶道具に違いがあります。
千利休は、魚問屋の子供として生まれ、茶の湯を通して織田信長や豊臣秀吉といった2人の天下人に仕え、わび茶を大成しました。
豊臣秀吉との関係悪化により切腹となりましたが、その遺志を継いだ息子や弟子達により、その精神は現代にまで伝えられているのです。