戦国時代、茶の湯を嗜むことは一種のステータスとなり、数寄者と呼ばれる文化人のみならず、武将達の間でも茶の湯が流行。このことから、茶道に秀でた戦国大名自らが家元となる「武家茶道」が開かれます。その武家茶道の中でも代表格とされるのが、江戸時代初期からの歴史を持つ「遠州流」(えんしゅうりゅう)です。ここでは、武家茶道を牽引した「遠州流」についてご紹介します。
「遠州流」とは、江戸時代初期に「小堀遠州」(こぼりえんしゅう:小堀政一[こぼりまさかず]とも)という戦国大名がはじめた茶道の流派のこと。
小堀遠州は、侘茶を大成した「千利休」の最も高名な門弟のひとり「利休七哲」に数えられる「古田織部」(ふるたおりべ)に師事し、茶道を学びました。遠州流は、千利休と古田織部の茶風に、桃山時代の茶風と小堀遠州独自の美意識を加えて生み出した茶道だと伝わります。
千利休を祖とする、日本最大の茶道の流派「表千家」において美しいとされる所作は、「流れるような点前」。一方、小堀遠州を流祖とする武家茶道である遠州流は、武家らしいメリハリのある点前が特徴です。
また、遠州流の茶道では優雅さが重要視され、これは「綺麗さび」と呼ばれる遠州流独特の茶風。なお、着物が単衣(ひとえ)になる夏季などには袱紗(ふくさ)の生地を絽に変えるなど、道具を清める手元まで季節感を取り入れ、細やかな心配りがされているのです。
また、遠州流茶道の大きな特徴とされるのが袱紗の位置。千家流では左側に袱紗を置きますが、遠州流では右側です。その理由は諸説がありますが、千家流を広めた「千宗旦」(せんのそうたん)が左利きだったことから、千家流の袱紗の位置が左側になったと伝わります。
一方で、左側は武将が腰に刀剣を差す場所なので、武家茶道である遠州流は右側に袱紗を置いたとする説も。また、袱紗のさばき方にも違いがあり、千家流では1種類ですが、遠州流には「こき袱紗」と「たたみ袱紗」の2種類があります。
遠州流の理念は、「稽古照今」(けいこしょうこん)。先人が築き上げた伝統を正しく受け継ぎ、現代にあった茶道にすることです。千利休の茶道は、質素で内省的な「わび茶」。小堀遠州が師事した古田織部は、武家らしく、力強く大胆な茶道でした。
小堀遠州は、2人の先人の教えに自然な優雅さを取り入れ、「綺麗さび」と呼ばれる茶風を築いたのです。わびやさびに、美しさや明るさ、豊かさが加わり、誰もが美しいと思える「綺麗さび」。
小堀遠州が創り上げた「客観性の美」と「調和の美」がある茶道は、多くの人から支持されました。小堀遠州が活躍した時代は、戦乱の世から平和な世への転換期。生活が豊かになり、甲冑(鎧兜)などでもみられるように、茶道にも美意識を反映した物がより好まれたと考えられています。
遠州流のはじまりは、江戸時代初期にまでさかのぼります。流祖の小堀遠州は才能豊かな人物。そんな小堀遠州が茶道を究めた背景、現在も受け継がれる、格式ある茶道である遠州流の歴史について見ていきましょう。
小堀遠州は、1579年(天正7年)、「豊臣秀吉」の弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)の家臣「小堀正次」(こぼりまさつぐ)の長男として生まれました。
豊臣秀吉が死去したのち、「徳川家康」の重臣として行政に務める一方、幼少の頃より父親から茶道の英才教育を受けていたことから、茶人としても活躍。書画や和歌などにも優れた才能を発揮し、当代きっての文化人であった小堀遠州は、千利休や古田織部の茶流に、独自の美意識「綺麗さび」を加えた茶の湯の世界を確立しました。
生涯で400回余り開いた茶会に招かれた人数は、延べ2,000人にも及ぶと伝わっています。寛永期(1624~1643年)の頃には、上層文化人の集まり「サロン」の中心人物となり活躍。
建築や造園にも才能を発揮し、桂離宮や仙洞御所、二条城などの建築や、大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などの庭園造りにも携わったと言います。
さらには、高取焼や丹波焼、信楽焼などの茶陶の指導もしており、美術工芸においても足跡を残しました。また、茶室に七宝細工による色彩、装飾を取り入れたはじめの人物であるとも伝えられています。
小堀遠州の目は、中国や朝鮮、オランダなどの海外にも向けられ、茶陶の注文にも力を注ぎました。小堀遠州は、舶来品にも興味を持ち、茶碗や仕覆などの茶道具に舶来品を取り入れ茶道を楽しんだと言い、好奇心が旺盛であったとする人物像も伝わります。
遠州流とは別に、「小堀遠州流」という流派が存在。小堀遠州流の開祖は、小堀遠州の実弟である「小堀正行」(こぼりまさゆき)です。小堀遠州流は、遠州流の5代目である「小堀宗香」(こぼりそうこう)の息子「小堀宗忠」(こぼりそうちゅう)と「小堀宗信」(こぼりそうしん)をそれぞれ7代目・8代目として養子に迎え、小堀遠州流も小堀遠州の直系となりました。
そのため、小堀遠州流の流祖も小堀遠州となり、小堀遠州流をはじめたとされる小堀正行は、現在は2代目とされています。小堀遠州が開祖となった遠州流は、7代目「小堀宗友」(こぼりそうゆう)の代に大きく変わりました。
小堀宗友は、田沼意次の下で幕府の要職を務めていましたが、1788年(天明8年)、伏見騒動に巻き込まれ小堀遠州以後の所領であった近江国小室藩(現在の滋賀県長浜市小室町)を改易。大名小堀家は断絶となります。領地が没収されたのち、8代目「小堀宗中」(こぼりそうちゅう)は京都孤篷庵で育ち、40年間の浪人生活を送りました。
その後、1828年(文政11年)には300俵小普請組の御家人に召され本家を再興。改易の時に手放されていた諸道具も取り戻し、教えを伝授していったのです。明治維新に士族となった小堀家は、遠州流を広く一般に教授することを決め、流祖以来小堀家に伝承されている茶道を一般に公開。遠州流茶道普及に専心し、遠州流が多くの人に親しまれるようになったのです。