お茶は、私達の毎日の生活に欠かせない物となっていますが、それはいつごろからのことなのでしょうか。日本文化のひとつとして確立された茶道。茶道の歴史を見ていきながら、日本人がお茶とどう付き合ってきたのかについて紐解いていきましょう。
現代の茶道にもつながる、「千利休」が確立した「わび茶」は、日本で独自に進化した文化です。茶道は、どのような経過をたどって、進化してきたのでしょうか。
日本に初めてお茶がもたらされたのは804年(延暦23年)と言われています。
唐(当時の中国)に渡った「空海」と「最澄」が持ち帰ったのですが、当時は全国に普及するまでには至りませんでした。そのあと、12世紀になり、禅宗を学ぶために宋に渡った臨済宗の開祖「栄西」(えいさい)が「抹茶」を伝えると、薬として珍重されるようになります。
平安時代末期には、各地で茶の栽培が始まり、鎌倉時代には貴族はもちろん、武士の間にもお茶を楽しむ習慣が広がっていきました。当時、お茶の飲み比べを行い、産地を当てる「闘茶」(とうちゃ)という娯楽が流行していましたが、異を唱えたのがわび茶の創始者となる「村田珠光」(むらたじゅこう)です。
禅僧の「一休宗純」(いっきゅうそうじゅん)を師とする村田珠光は、禅の精神性と茶道の融合を追究します。闘茶で用いられていた華美な茶碗ではなく、信楽焼や伊賀焼といった素朴な陶器を取り入れました。わび茶という言葉は、村田珠光自身が発したものではなく、後世の江戸時代になってから言われるようになったものです。
しかし、村田珠光が創出したわび茶の原型が、のちに日本の代表的な文化となる茶道の源流だと言えます。
わび茶を大成させ芸術的な領域にまで導いたのが、安土桃山時代に活躍した千利休です。
千利休は、大坂・堺の有力な町衆のひとりでしたが、村田珠光の流れを汲む「武野紹鴎」(たけのじょうおう)に師事したと伝えられています。千利休は、武野紹鴎が発展させたわび茶のかたちを、さらに洗練された文化へと昇華させていきました。若い頃からお茶に親しんだ千利休でしたが、遊興的な要素を排除し、精神的な交わりを重視した茶道を目指しました。
自らがデザインし職人に作らせた「楽茶碗」(らくちゃわん)、広さが4畳半以下の小間の茶室、竹を削った簡素な道具など、わび茶を構成する要素を確立したのも千利休です。千利休のわび茶は、「草庵の茶」(そうあんのちゃ)とも呼ばれ、千利休自身は「茶聖」と称されました。
千利休亡きあとも、孫にあたる「千宗旦」(せんのそうたん)らによって、茶道は広まっていきました。江戸時代になると、武士のたしなみとして大名家それぞれの流儀が発展していきます。
江戸時代以降に武士が行った茶道は「武家茶道」、「大名茶道」などと呼ばれました。簡素なたたずまいを良しとする千利休のわび茶を基本にしながらも、武士らしい所作が加わる、独特な茶道へと発展していきます。
例えば、茶碗を拝見する際に用いたり、茶道具を清める布の「袱紗」(ふくさ)は、通常、左に付ける物ですが、武士の場合には刀剣を差しているため、右に付けるといった具合です。また、あいさつをする場合には、ひざの前に手を置くのではなく、腰の横に拳を添える形を取ります。質実剛健さと、さわやかなふるまいが感じられる「武家茶道」は、武士の精神面の鍛錬にもなっていたのでしょう。
各藩や各大名はそれぞれの流儀をもち、優れた茶匠を師範として召し抱えました。千宗旦の息子である「江岑宗左」(こうしんそうさ)も、徳川御三家のひとつである紀州徳川家に茶堂(さどう:茶事をつかさどり、茶の師匠を務めた僧侶)として仕えています。
武士としての礼儀、禅に通じる精神的な教えなど、茶道は、徳川幕府が統治する武家社会に欠かせない規範となっていきました。
手順や所作などの「点前」(てまえ)を重んじる「武家茶道」とは異なり、町人の間では高価な物ではなく、より気軽に口にすることのできる茶が浸透していきます。摘んだ茶葉を、天日干ししたり釜で炒ったりして作る茶です。
最初は茶釜で煮出していましたが、時代の経過につれて、「急須」(きゅうす)が用いられるようになっていきました。茶は、次第に公家や武士階級だけではなく、町人にも手が届く物となります。18世紀の半ばには、京都府・宇治田原の「永谷宗円」(ながたにそうえん)によって、煎茶の製法が考案されたことで、香り高く美しい色合いの煎茶が登場。
これ以降、より優良な煎茶の開発が進められていきます。19世紀に入り「山本嘉兵衛」(やまもとかへえ)が日光を遮って栽培した高級茶葉「玉露」(ぎょくろ)を誕生させると、煎茶のなかでも極上品として扱われ、地位の高い人達も好んで煎茶を飲むように。江戸のお茶屋の店先には、すでに様々な種類の茶が並び、町人にとっても欠かせない嗜好品となります。
最初は、中国からもたらされた貴重な薬であったお茶が、時を経て次第に日本に定着し、人々に愛好されるようになっていきました。ここからは、近代のお茶について見ていきましょう。
日本で独自の発展を遂げたお茶は、中国茶とは異なる物として輸出品の目玉とされてきました。1859年(安政6年)には、鎖国から開港して間もない長崎、横浜、函館から、すでに重要な輸出品として、181tのお茶がアメリカに向けて輸出されています。
その後も主要輸出品としての地位を保ち続けたお茶は、1887年(明治20年)まで海外輸出品の総額15~20%を占めるほどの重要品目とされていました。
ところがお茶は、国の貿易黒字に貢献するという理由で輸出に重点が置かれたため、国内需要で消費する分が、あと回しにされていたと考えられます。明治の初期には、士族による茶園の開拓が進められていましたが、そのあとは農民が茶づくりを引き継ぎ、明治中期には機械化されるなど生産量と品質に安定が見られるようになりました。
お茶の輸出は、大正期にピークを迎えたのち、第2次世界大戦の開戦で一時は低迷。終戦後は、アメリカの援助物資に対する返礼の品物として選定されたため、国を挙げて生産に取り組み、1950年代には再び活気を取り戻します。
しかし、次第に中国茶に市場を奪われ、国内需要が高まったことも関係して、海外への国産茶葉の輸出量は急速に減少していきました。近年、日本のお茶は、再び海外で脚光を浴びつつあります。2005年(平成17年)には1,000t台、2010年(平成22年)には 2,000tを超える輸出量となり、輸出品としての価値を取り戻しました。
背景には、日本茶の品質の高さが評価されていることや、和食ブームがあります。日本への観光に訪れた、日本文化に精通した外国人が、日本茶の良さを発信していることも、人気をあと押しする要因となりました。
江戸時代には、町人でもお茶を楽しんでいましたが、一般家庭に根付いたのは大正末期以降と、一般的な飲料としては、意外にも新しい文化と言えます。
輸出の歴史でも見たように、お茶は国に富をもたらす大切な輸出商品として扱われてきました。
皮肉なのは、海外への輸出量の減少によって、お茶がようやく日本国民の日常品となったことです。昭和の家庭の風景になると、必ずお茶が登場するほど生活に浸透しました。長い間、食後や茶の間のだんらんに欠かせない日本茶でしたが、欧米風の生活スタイルや忙しい現代人の暮らしのなかで、次第に急須でお茶を入れる機会が失われてきています。
一時は、コーヒーや紅茶に完全に取って代わられたように思われましたが、ペットボトル飲料の普及でさらに人気が復活。今では、様々なスイーツやアイスなどのフレーバーとして、海外でも根強い人気を博しています。
最近の研究によると、お茶にはアンチエイジング効果や免疫力の強化など、様々な効能が認められてきました。生活習慣病の予防にも、お茶が効果的であることが分かっています。
最初は、高価な薬としてごく一部の人達の物であったお茶。嗜好品として長い歴史をもちながら、また新たな健康効果への魅力に焦点が当たっています。