茶人と流派の歴史

三斎流とは
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三斎流とは 三斎流とは
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「三斎流」(さんさいりゅう)とは、江戸時代前期に興された、「細川三斎」(ほそかわさんさい:細川忠興[ほそかわただおき])を流祖とする武家茶道の一派です。島根県出雲市に家元があり、現在まで続く三斎流の特徴や、三斎流が興った経緯と発展、流祖・細川三斎(細川忠興)についてご紹介します。

三斎流茶道

武家茶道の一派である三斎流は、江戸時代前期に、文化人・茶人として名を馳せた戦国大名「細川忠興」(細川三斎)の教えを受け、弟子のひとりが興した流派です。武家茶道独特の所作なども特徴のひとつとされる、三斎流の特徴や歴史を見ていきます。

千利休より受け継がれる作法

千利休

千利休

三斎流は、侘茶を大成させた戦国時代の茶人「千利休」の最も高名な弟子である、「利休七哲」のひとりに数えられた肥後国(現在の熊本県)の戦国大名・細川忠興(細川三斎)を流祖として仰ぐ、武家茶道のひとつです。

この三斎流を興したのは、細川忠興(細川三斎)の門人である「一尾伊織」(いちおいおり)。細川忠興(細川三斎)は、師・千利休の点前を忠実に踏襲したことから、一尾伊織も師・細川忠興(細川三斎)の教えをよく守ったと言われています。

現在伝わる三斎流でも、他の流派と比べて古いかたちの所作が散見され、細川忠興が伝える茶の湯が丁寧に受け継がれているのです。座る際に手を拳固にして置く、柄杓を四角く扱う、リズミカルでかっちりした動きなど、武家茶道ならではの大きな所作も、三斎流ならではの魅力。

京都に家元がある日本最大の茶道の一派・千家に連なる流派では、袱紗(ふくさ)を左に付けますが、武家茶道である三斎流は、刀剣を左側に差して入ったことから、右側に袱紗を付ける点にも特徴が見られます。

出雲へと伝授された三斎流

三斎流は丹後小倉藩から肥後細川藩の藩主となった細川忠興(細川三斎)を流祖とする茶道ですが、現在の三斎流家元は、出雲市に存在。出雲に三斎流が継承されるきっかけを作ったのは、松江藩(現在の島根県東部及び島根県隠岐郡)の7代目藩主であった「松平治郷」(まつだいらはるさと:不昧[ふまい])でした。

松平治郷は、松江藩の財政再建に活躍をした優れた為政者で、茶の湯への関心が高く、茶道具や名物などを多数収集したことでも知られています。松平治郷は、参勤交代に際して、茶道の師として仰いだ三斎流6代目であった「荒井一掌」(あらいいっしょう)を江戸から松江藩に招き、「普門院観月庵」という草庵を造設。

藩主自ら三斎流の茶道を学び、松江藩の家臣も荒井一掌に師事したことで、三斎流が出雲国に根付くこととなったのです。なお、三斎流18代「森山久太郎」(もりやまきゅうたろう)が1962年(昭和37年)、出雲に「観翠庵道場」を開き、家元が江戸から出雲へ移ることとなりました。

なお、現在の家元の庵号が観翠庵となっているのは、この観翠庵道場に由来するもの。出雲に三斎流が伝わってから現在まで4代、流祖・細川忠興(細川三斎)からは21代を数え、格調高い武家茶道が出雲で息づくことになったのです。

三斎流の興りと発展

細川忠興(細川三斎)は、和歌や能楽、絵画などにも造詣の深い文化人としての側面と、優れた武将としての側面が見事に両立していました。ここでは、三斎流の流祖である細川忠興(細川三斎)の人物像と、三斎流の発展について見ていきましょう。

武勇にも優れた文化人であった細川忠興

細川忠興

細川忠興

細川忠興(細川三斎)は、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に仕える武将「細川藤孝」(ほそかわふじたか:細川幽斎[ほそかわゆうさい])の長男として1563年(永禄6年)に誕生。父・細川藤孝も茶道や和歌に優れた才能を発揮した文化人として知られ、幼い頃から茶道や和歌に親しんだと言います。

細川忠興(細川三斎)の人柄としては、「天下一気の短い人物」と評されることもあるなど、血気盛んな武将らしい一面も。茶の湯や和歌、能楽に通じた趣味人・文化人として知られ、千利休の高弟「利休七哲」のひとりに数えられています。

また、師・千利休が「豊臣秀吉」の不興を買い、堺に謹慎させられた際には、数多い弟子の中で、細川忠興(細川三斎)と「古田織部」(ふるたおりべ)の2名だけが、豊臣秀吉の不興を恐れずに港まで見送ったと言われ、義理堅く誠実な一面も持ち合わせていました。

なお、細川家は「本能寺の変」で「織田信長」を討った「明智光秀」と縁深かったため、一時は家の存続も危ぶまれましたが、細川忠興(細川三斎)の素早い機転で難を逃れています。その後、「関ヶ原の戦い」での功績を評価され、初代豊前小倉藩藩主・肥前細川藩藩主という大大名になりました。

細川忠興(細川三斎)は、武将としての心を死ぬまで忘れなかった一方で、豊臣秀吉が催した「北野大茶会」では「松向庵」という名の茶席を設ける等、茶人としても名声を高めています。のちに、細川忠興(細川三斎)が「松向殿」と呼ばれたのは、この茶席の名が由来。細川家が生き延びる礎を築き、1645年(正保2年)に83歳でこの世を去ったのです。

三斎流の発展

利休七哲のひとりに数えられるほどの茶人であった細川忠興(細川三斎)は、その家中に多くの門人を抱えていました。そのひとりが、幕府御書院番を務めていた一尾伊織。

もともとは、細川忠興(細川三斎)の家臣「佐藤清信」(さとうきよのぶ)に師事していたとされますが、のちに細川忠興(細川三斎)に弟子入りし、一派を興すに至りました。

その後、三斎流6代目の荒井一掌から松江藩主・松平治郷にもたらされた三斎流は、不昧流と呼ばれる系譜と、普門院住職に代々受け継がれる三斎流の系譜に分かれ、受け継がれることに。現在では、在家に下った普門院の三斎流が、観翠庵初代の森山家で伝承されています。

他にも、三斎流の系譜として、美濃加納藩城主「安藤信友」(あんどうのぶとも)が伝えた安藤家御家流、幕臣「舟橋希賢」(ふなばしきけん)が伝えた細川三斎流なども存在しています。

現代に伝えられる三斎流茶道の歴史

武家茶道

武家茶道

流祖・細川三斎から現在に至るまで、三斎流は、21代を数え、出雲の地に古式ゆかしい茶の湯の流れが連綿と受け継がれてきました。

出雲に三斎流が伝えられたのちは、出家者が観月庵を代々継承して家元を務めましたが、明治に入ると寺が一時無住となり、三斎流の道統が在家に移ったのです。

18代・観翠庵森山久太郎は、京都・大徳寺で数年学んだのち出雲市で観翠庵を営み、1954年(昭和29年)には、細川家から三斎流家元の認可を受けると、三斎流を再興。その後、地方では数少ない茶道家元として茶道の普及発展に努めたことで、出雲はもちろん、京都や東京でも三斎流が広まることとなったのです。

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千利休

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