「木下家定」(きのしたいえさだ)は、「豊臣秀吉」の正室で「北政所」(きたのまんどころ)の名で知られる「ねね」の兄にあたる人物です。もともと武士ではありませんでしたが、義弟である豊臣秀吉の従者となり、親族として天下人を支えました。豊臣秀吉の死後は、妹のねねの警護と世話をしながら江戸時代まで生き延び、多くの子孫を残しています。そのなかには「関ヶ原の戦い」で東軍寝返りをしたことで有名な武将「小早川秀秋」(こばやかわひであき)も。戦国の世で表舞台には立たなかったものの、裏で豊臣家やねねを支えた木下家定についてご紹介します。
「木下家定」(きのしたいえさだ)は、1543年(天文12年)、尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)の「杉原定利」(すぎはらさだとし)と「朝日殿」(あさひどの)の長男として誕生します。父の杉原定利は「織田信長」の家臣で、母である朝日殿の実家に婿入りしていました。
木下家定という名ですが、もともとは杉原家の長男であるため、当初は「杉原孫兵衛」(すぎはらまごべえ)と名乗っていました。木下姓を名乗ることとなった理由は、1561年(永禄4年)に妹のねねが木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)と結婚したことにあります。
当時、ねねと木下藤吉郎は身分の差があったため、周囲から結婚を反対されていました。戦国時代と言えば、政略結婚が主流の時代です。ねねの両親も、織田家に仕官したばかりで身分の低い木下藤吉郎のもとに嫁がせることを心配していたのでしょう。そこで、杉原孫兵衛は自身も木下家に養子縁組することを提案し、2人の結婚を認めさせたのです。
こうして、杉原孫兵衛は木下家の人間として木下姓を名乗るようになりました。ねねと木下藤吉郎が恋愛結婚できたのは、実は兄である木下家定のおかげだったのです。
織田信長政権下での木下家定に武将としての功績などは見受けられませんが、木下家の人間となってから、木下家定は豊臣秀吉にしたがって行動していたと考えられます。
同じく親族として当初から豊臣秀吉に仕えていた伯父「杉原家次」(すぎはらいえつぐ)は、豊臣秀吉が天下統一の道を進むなかで京都所司代(京都に設置された幕府の機関)に任じられ、宿老(しゅくろう:古参の臣や家老など重要な地位に就く者)として出世を重ねていました。木下家定も杉原家次に次ぐ地位を築いていたと考えられます。
実際に、1584年(天正12年)に杉原家次が病死したあとは、木下家定が親族の中で筆頭格となりました。
豊臣秀吉が「大坂城」(大阪府大阪市)に拠点を移し、1585年(天正13年)に弟の「豊臣秀長」が播磨国「姫路城」(兵庫県姫路市)から大和国「郡山城」(奈良県大和郡山市)に入ると、木下家定は城代として姫路城に入ります。その後、羽柴姓を与えられたあと、豊臣姓と菊桐紋を授かり、姫路城主2万5千石に加増されました。当時は大坂城留守居を務めることが多かったため、木下家定は三男「木下延俊」(きのしたのぶとし)を姫路城の城代として置いています。
豊臣秀吉の死後、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では中立の立場を取り、妹である北政所(きたのまんどころ:ねねの当時の称号)の警護に徹しました。合戦では、木下家定の五男「小早川秀秋」が徳川家康の東軍に寝返ったことで、「石田三成」の西軍が敗れることに。
父として、豊臣家の人間として、当時の木下家定にはあらゆる葛藤があったと考えられますが、一貫してどちらにも与せず、妹の北政所を守り抜きました。
関ヶ原の戦い後、木下家定は姫路から備中国足守(現在の岡山県岡山市北区足守)へ同じ2万5千石で転封となります。これによって足守藩が立藩されましたが、木下家定は領国には足を運ばず、京都で出家して妹である北政所の世話をしながら暮らしました。
そして、1608年(慶長13年)、木下家定は豊臣家の行く末を見届けられないまま、66年の生涯に幕を閉じたのです。
木下家定の死後、妹の北政所が豊臣秀吉の菩提を弔うために建立した「高台寺」(こうだいじ:京都市東山区)に、北政所によって墓石が築かれています。また、1604年(慶長9年)に自身が再興した「建仁寺」(けんにんじ:京都市東山区)の塔頭(たっちゅう:寺内寺院)である「常光院」(じょうこういん)にも、木下家定の墓所が建てられました。
木下家定は家女との間に長男「木下勝俊」(きのしたかつとし)をもうけたあと、伯父である杉原家次の娘「雲照院」(うんしょういん)を正室に娶り、生涯で多くの子女をもうけました。
木下家定の死後、長男の木下勝俊と次男の「木下利房」(きのしたとしふさ)との間で遺領争いが生じ、分割相続するようにという江戸幕府の命に背いたため、2人とも所領が没収されるという事件が起きています。もともと、次男の木下利房は関ヶ原の戦いで西軍に与していたため、改易(かいえき:大名の領地・身分・家屋敷を幕府が没収し、大名としての家を断絶させて取りつぶしてしまうこと)処分となっていたのです。
しかし、幕府と豊臣家が争った「大坂の陣」では、木下利房は徳川方に与して功績を挙げます。これにより、木下家は備中国足守の所領を返還されて足守藩主(あしもりはんしゅ:備中国の外様藩)に復帰しました。一方、次男と争っていた長男の木下勝俊は、事件のあと京都で隠棲(いんせい:俗世間をのがれて静かに暮らすこと)して「木下長嘯子」(きのしたちょうしょうし)という歌人となっています。あの「松尾芭蕉」(まつおばしょう)にも影響を与えたと言われるほど、当時の歌壇を代表する歌人として活躍しました。
また、父の代わりに姫路城代を務めていた三男の木下延俊は、関ヶ原の戦いで東軍に与し、戦後に豊後国日出藩(ひじはん:現在の大分県速見郡日出町)3万石を領しています。次男の木下利房と三男の木下延俊の両藩は、明治の廃藩置県まで存続しました。
ちなみに、関ヶ原の戦いの東軍寝返りで有名となった五男の小早川秀秋は、岡山藩55万石の藩主となりましたが、戦後すぐに跡継ぎを残さずに早死にしたため、改易となっています。