戦国三英傑の事業承継・後継者対策

織田信長の事業承継・後継者対策
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織田信長の事業承継・後継者対策 織田信長の事業承継・後継者対策
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「うつけ者」と揶揄されながらも、革新的な政治手法を用いて権力を拡大した「織田信長」。「豊臣秀吉」と「徳川家康」に並ぶ「戦国三英傑」(せんごくさんえいけつ)のひとりとして天下統一を目指していましたが、「本能寺の変」により、志半ばでその生涯を閉じています。しかし、万事に抜かりがない織田信長は、天下統一事業を少しでも長く存続させるべく、早くから後継者対策を講じてきました。その具体的な内容についてご説明すると共に、織田信長による後継者対策が、最終的にどのような結果に結びついたかについても解説します。

織田信長の事業

武力を駆使した天下統一事業

織田信長

織田信長

父「織田信秀」(おだのぶひで)の没後、「織田家」の家督を相続した織田信長。天下統一事業の手始めとして、一族内部の抗争に奔走。

最終的には、1559年(永禄2年)に「岩倉城」(いわくらじょう:愛知県岩倉市)城主「織田信賢」(おだのぶかた)を討つと、尾張国(現在の愛知県西部)を統一したのです。

翌1560年(永禄3年)に織田信長は、「今川義元」(いまがわよしもと)を「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で討ちます。その後、織田信長は、「今川氏」から独立した三河国(現在の愛知県東部)の「徳川家康」と同盟を締結。尾張における地盤をより強固なものにしました。

1567年(永禄10年)、美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤龍興」(さいとうたつおき)が居城としていた「稲葉山城」(いなばやまじょう:岐阜県岐阜市)を攻め取ると、同城を「岐阜城」に改称。「清洲城」(愛知県清須市)より岐阜城へ移ったのです。

さらに織田信長は1568年(永禄11年)、「足利義昭」(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たし、「室町幕府」を再興させています。1570年(永禄13年/元亀元年)には、反信長勢力であり、足利義昭を支援していた「浅井氏」(あざいし)、及び「朝倉氏」(あさくらし)を「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)で討ち、1573年(元亀4年/天正元年)に足利義昭を追放。

これにより、室町幕府は滅亡することに。その後、織田信長は、「武田氏」との間で繰り広げた1575年(天正3年)の「長篠の戦い」(ながしののたたかい)、1582年(天正10年)の「天目山の戦い」(てんもくざんのたたかい)で勝利を収め、武田氏が滅亡。38ヵ国もの領地をその支配下に置いたのです。こうして織田信長は、「尾張の虎」の異名を取った父譲りの武力をもって、その勢力を順調に拡大させていきました。

経営手腕を発揮した様々な政策

天下統一という悲願を叶えるため、戦いに明け暮れる生涯を送った織田信長。それ故に、冷酷で傍若無人な人物像を注目されがちですが、天下人となるのにふさわしい、類い稀なる経営手腕の持ち主でもありました。

それが窺えるのが、「楽市楽座」(らくいちらくざ)と称される経済政策。特権商人による市場独占の禁止、市場税や商業税の免除などにより、商人達が自由に商売をできる環境を整備。加えて関所の撤廃や、粗悪な銭の流通禁止などを定めた「撰銭令」(えりぜにれい)を発し、商品流通の円滑化を図ることで商業の繁栄に繋げたのです。

比叡山延暦寺_根本中堂

比叡山延暦寺

また、織田信長が領国経営を行う際、経済以外に重視していたことが、旧来の秩序であった宗教勢力の上に自身の政治権力を置くこと。

織田信長は、「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)の焼き討ち、高野山(和歌山県伊那郡)を本拠とした僧侶「高野聖」(こうやひじり)の斬殺などを行い、容赦なく仏教を弾圧しています。

一方で、ポルトガルから宣教師「ルイス・フロイス」を招聘(しょうへい)し、京都での布教や、「南蛮寺」(なんばんじ:キリシタンの教会のこと)の建設を許可するなど、キリスト教については手厚く保護したのです。これは、新しい物好きであった織田信長の西洋文化への興味のみならず、一向宗の信徒達による「一向一揆」(いっこういっき)への対抗が背景にあったと考えられています。

織田信長の後継者対策

織田信長の正統後継者・織田信忠の活躍ぶりとは

織田信忠

織田信忠

西洋の文化や知識を自ら進んで吸収していたということもあり、戦場で大量の鉄砲を一斉に撃つ戦術をいち早く取り入れて実践するなど、優れた戦略家でもあった織田信長。

破天荒な性格の反面、合戦においても発揮されていた思慮深さを活かして嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)の才能を見抜き、早くから後継者と定めていました。

織田信長は織田信忠について、自身が成し遂げてきた天下統一事業を存続させられる器量の持ち主だと判断したのです。織田信長の先見性は正しかったようで、織田信忠は1572年(元亀3年)に初陣を飾って以降、1574年(天正2年)の「長島一向一揆」(ながしまいっこういっき)や、翌年の長篠の戦いに従軍して活躍。

さらに織田信忠は、前述した天目山の戦いなどを含む「甲州征伐」(こうしゅうせいばつ)での総大将となり、尾張、美濃約50,000人の軍勢を率いる大役を担っています。この甲州征伐における一連の戦いで最も特筆すべきなのが、現在の長野県伊那市で勃発した「高遠城の戦い」(たかとおじょうのたたかい)。

織田信忠は総大将でありながら自ら突進し、堀によじ登るという奮戦ぶりを見せました。これが兵士達の士気を上げることに繋がり、「高遠城」を陥落。自軍を勝利へと導いたのです。

織田信長の一代記「信長公記」(しんちょうこうき)には、「織田信忠が後継者として果たした甲州征伐での役割は、次代にまで伝えられるべき功績である」と称賛した記述が見られ、織田信長からも「天下を譲ろう」とまで言われたと伝えられています。このように織田信忠は着実に武功を積み、父・織田信長の期待に応えたのです。

織田信長が織田信忠を跡継ぎに選んだ理由

織田信長がまだ存命中あった1576年(天正4年)に織田信忠は、織田家の家督を譲られました。それと同時に織田信忠は、織田信長が「安土城」(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)を築いてそちらに移ると、自身は岐阜城に入ってその城主となります。

この時、織田信忠は、織田家にとって非常に重要な領国であった尾張国と美濃国の支配も任されるようになったのです。当時の織田信長は、まだ43歳。天下統一に向けて、勢いに乗っていた頃でした。

それにもかかわらず、織田信長が家督を譲ったのは、数々の武功を挙げてきた織田信忠に織田家当主として様々な経験を積ませることで、織田信忠こそが自身の正統後継者であると、周囲に認めさせる思惑があったと考えられているのです。

その後、織田信忠は1577年(天正5年)に、大和国(現在の奈良県)の戦国大名であり、織田信長に反旗を翻した「松永久秀」(まつながひさひで)、「松永久通」(まつながひさみち)父子を「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)で討つ手柄を立てるなど、尾張、及び美濃の領主として、その権力を少しずつ拡大していったのです。ここまでの織田信忠の活躍を見る限りでは、織田信長は理想的な後継者対策を行ったと評価しても良いのではないでしょうか。

織田信長の事業承継の結果

本能寺の変

本能寺の変

織田信忠が織田家当主の座に就いたとは言っても、いわゆる「天下の権」は織田信長が握ったままの状況にありました。

江戸時代初期の儒学者であり、医師でもあった「小瀬甫庵」(おぜほあん)の著書「甫庵信長記」(ほあんしんちょうき/ほあんのぶながき)によると、織田信長は1582年(天正10年)の秋には、織田信忠に天下の権を完全に譲る予定にしていたとされています。

しかし、その時期よりも早い同年6月2日に織田信長は、自身の重臣であった「明智光秀」(あけちみつひで)の謀反によって、本能寺の変に倒れてしまったのです。本能寺の変の際に織田信忠は、同寺と同じ京都にある「妙覚寺」(みょうかくじ:京都市上京区)に滞在。

本能寺の変が発生した直後は、妙覚寺は明智光秀軍に包囲されておらず、織田信忠が脱出できる状況にあったのです。それでも織田信忠は、寡兵(かへい:少数の兵力)をもって明智光秀軍と戦うことを決意。

救援のために本能寺へ向かうも、その道中で織田信長自刃の報を受けます。このときに織田信忠は、明智光秀軍を迎え撃つために、側近らと共に「誠仁親王」(さねひとしんのう)の邸宅であった「二条新御所」(現在の二条城[京都市中京区])へ赴きました。

そして誠仁親王を脱出させると、二条新御所での籠城戦に持ち込みます。ところが、最終的に織田信忠は、10,000人を超える大軍であった明智光秀軍による猛攻に屈し、二条新御所内で自刃したのです。しかし、敵前逃亡を選択せず、勇猛果敢に戦った織田信忠は、織田信長の正統後継者としての意地を最後まで貫いたと言えます。

こうして織田信長が、嫡男・織田信忠に託した統一事業は頓挫してしまいましたが、豊臣秀吉の「豊臣政権」、そして徳川家康が成立させた「江戸幕府」に続く封建的統一の基盤を作ったことは、日本史上において高く評価されているのです。

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