戦国三英傑の事業承継・後継者対策

豊臣秀吉の事業承継・後継者対策
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豊臣秀吉の事業承継・後継者対策 豊臣秀吉の事業承継・後継者対策
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「戦国三英傑」(せんごくさんえいけつ)の中でも、「平氏」を自称した「織田信長」、同じく「源氏」の「徳川家康」とは異なり、下級階層出身であったと伝わる「豊臣秀吉」。主君・織田信長亡きあと、斬新な発想で多種多様な統一事業を展開し、「下剋上」を体現するかのように急激な速度で天下人となりました。
しかし、その後継者対策については、決して成功とは言えない結果に終わっています。事業承継において豊臣秀吉の目論見が外れてしまった原因は何だったのか、天下人への歩みを紐解きつつ、分かりやすくご説明します。

豊臣秀吉の事業

全国統一までの道のり

1554年(天文23年)頃より、織田信長に仕えていた豊臣秀吉。当初は足軽でしたが、戦功を重ねて重臣にまで成り上がりました。

1582年(天正10年)6月2日、「明智光秀」(あけちみつひで)の謀反によって「本能寺の変」が勃発し、織田信長が自刃してしまいます。この時、豊臣秀吉は中国平定の一環である、「備中高松城の戦い」(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)の真っ最中。

毛利氏」(もうりし)に属していた「清水宗治」(しみずむねはる)が城主を務める「備中高松城」(岡山市北区)を「水攻め/水責め」で包囲していました。しかし、織田信長が亡くなったことを知ると、迅速に毛利氏との講和を結び、京都へと向かいます(中国大返し)。

そのわずか11日後に、豊臣秀吉は「山崎の戦い」にて、主君の仇である明智光秀を討ち取ったのです。

1582年(天正10年)6月27日には、「清洲城」(愛知県清須市)にて、「織田家」の後継者について協議するために「清洲会議/清須会議」が開かれます。

織田家の筆頭家老「柴田勝家」(しばたかついえ)らと共に出席した豊臣秀吉は、織田信長の嫡孫であり、わずか3歳の「三法師[さんほうし:のちの織田秀信]」を後継者に推挙しました。まだ幼い三法師の後見人となることで実権を握り、天下統一を叶える取っ掛かりにしようと考えていたのです。

一方で柴田勝家は、織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)を推していました。しかし、主君の仇討ちを成功させた豊臣秀吉の発言力は大きく、三法師が織田家の次期当主になることに、正式に決定したのです。

翌1583年(天正11年)に豊臣秀吉は、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で柴田勝家を破り、1585年(天正13年)には四国を平定。同年に豊臣秀吉は、公家の最高位「関白」に朝廷より任ぜられたのです。

この当時、豊臣秀吉は「羽柴姓」(はしばせい)を用いていましたが、1586年(天正14年)に106代天皇「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)より「豊臣姓」を賜って本姓としました。さらには「太政大臣」(だじょうだいじん/だいじょうだいじん)にも就任。

朝廷の威光を利用して権力を拡大した豊臣秀吉は、1590年(天正18年)の「小田原の役」(おだわらのえき:別称[小田原征伐])で、「後北条氏」(ごほうじょうし:別称[小田原北条氏])を滅亡させました。

さらに奥州(現在の東北地方北西部)を平定し、遂に天下統一を実現したのです。

多彩なアイデアで編み出した独自の政策とは

豊臣秀吉は天下人としての地位を確固たるものにするため、「太閤検地」(たいこうけんち)などの様々な政策を打ち出します。その中でも高く評価されているのは、それまでになかった新たな統治制度。

豊臣秀吉は、統一事業を進めていく過程で配下となった戦国大名達に、官位を授けるように朝廷へ働きかけます。同時に豊臣秀吉は、彼らに豊臣姓を下賜したのです。

それまで朝廷の許可を得ずに用いていた「武家官位」ではなく、朝廷からの正式な官位は、家格を上げるために多くの武将達が欲していました。そこに着目した豊臣秀吉は、官位叙任と紐付けることで豊臣姓の価値を上げ、家臣達を掌握していったのです。

さらに豊臣秀吉は、関白は豊臣宗家の世襲制にして、大名間のランク付けを実施。その中でも関白に次ぐ「清華成」(せいがけなり)は公家に倣った様式であり、太政大臣にまで昇進できるように定めました。

1588年(天正18年)には「方広寺」(ほうこうじ:京都市東山区)の大仏建立という名目で「刀狩令」を発しています。しかし、その本当の目的は「一揆防止」と「兵農分離」にあったのです。

加えて1591年(天正19年)には、「身分統制令」(別称 人掃令[ひとばらいれい])を制定。農民が商売に従事することや、武家の奉公人が農民や町人になることを禁じました。

こうして豊臣秀吉は、前例のない大胆な大名統制策と、職業に基づく身分制度を設けたことで近世封建社会の基礎を確立したのです。

豊臣秀吉の後継者対策

いわゆる「天下の権」を握って以降、徹底的に独裁政治を行ってきた豊臣秀吉。長い間、子宝に恵まれなかったこともあり、50代を超えてからも関白職を務め、「豊臣政権」のトップに君臨していました。

豊臣秀次

豊臣秀次

そんな中、1589年(天正17年)に、側室「淀殿」(よどどの:本名「茶々」)との間に嫡男「豊臣鶴松」(とよとみつるまつ)が誕生。しかし1591年(天正19年)に、3歳で早世してしまったのです。

悲しみに暮れた豊臣秀吉でしたが、55歳にしてようやく、自身の後継者選びについて本格的に取り組み始めました。甥「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を家督相続者にするべく、自身の養子として迎え入れたのです。

その後、関白職を豊臣秀次に譲った豊臣秀吉でしたが、「太閤」(関白を子に譲った人の尊称)と呼ばれ、初めから全権を豊臣秀次に渡すことはしませんでした。以前と変わらず実権を握り、二元政治を敷いていたのです。

そして豊臣秀吉は後継者対策の一環として、豊臣秀次への統治権の譲渡を少しずつ進めてきました。ところが1593年(文禄2年)、豊臣秀吉が57歳の頃に実子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が生まれたことにより、状況が一変。

豊臣秀次を中心に考えられていた後継者対策が、思いも寄らない方向に向かっていくことになったのです。

豊臣秀吉の事業承継の結果

豊臣秀頼

豊臣秀頼

豊臣秀吉にとって待望の実子となった豊臣秀頼。そのため、豊臣秀吉に溺愛されていたのはもちろん、周囲からも特別扱いされていました。

この様子を目の当たりにしていた豊臣秀次は、次第に「関白職を豊臣秀頼に奪われるのではないか」と、不安に苛まれて(さいなまれて)しまいます。これが背景となって豊臣秀次は、不謹慎で粗暴な行動が目立つようになり、1595年(文禄4年)に謀反の嫌疑が掛けられたのです。

これにより、憔悴しきっていた豊臣秀次は、高野山の「青巌寺」(せいがんじ:現在の和歌山県伊那郡)で自害しました。そしてまだ6歳であった豊臣秀頼が、豊臣家の家督を継ぐことになったのです。

「秀次事件」と呼ばれるこの出来事は、豊臣秀頼の誕生により、豊臣秀次の存在を疎ましく思った豊臣秀吉の企みによるものだとする説もあります。

しかし、その真偽のほどは定かにはなっていません。いずれにしても、先に決まっていた後継者を蔑ろ(ないがしろ)にして、安易に後継者争いを起こしてしまったことで大きな混乱を招いたのは、家臣など関係者達にも、将来への不安を残す要因になってしまったのです。

また、事業承継、及び後継者に対する不安は豊臣秀吉自身も抱えていたと推測され、1598年(慶長3年)頃に、「浅野長政」(あさのながまさ)を始めとする「五奉行」による合議制、及び徳川家康を筆頭として、五奉行の顧問となって政務を統括する「五大老」の役職を設けています。

特に五大老には、「まだ幼い豊臣秀頼を補佐し、決して豊臣家に反旗を翻すことはしない」という旨の誓紙(せいし)まで書かせていました。さらには、その死因は不明ですが、豊臣秀吉が62歳で亡くなる間際には徳川家康を枕元に呼び、「くれぐれも豊臣秀頼のことを頼む」と懇願したのです。

ところが豊臣秀吉の没後は、徳川家康が頭角を現して勢力を拡大。「豊臣家」と「徳川家」の形勢が完全に逆転し、豊臣家の天下が奪われることになったのです。

こうして豊臣秀吉による事業承継と後継者対策は、失敗に終わってしまいました。その最大の原因は、やはり「遅きに失した」のひと言に尽きます。

豊臣秀吉は、天下人の後継者に不可欠な「帝王学」を教えるのには年老いており、また豊臣秀頼は、これを十分に理解して身に付けるには幼すぎたのです。

後継者が先代の経営力を確実に引き継ぐためには、最低でも10年は掛かるとする説があります。後継者の選定を含む事業承継の対策は、その先を見据えて、早い段階から行う必要があると言えるのです。

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