佐竹家家臣「根本里行」(ねもとさとゆき)とは、佐竹家(さたけけ)に代々仕えた譜代です。智勇に優れた「佐竹義重」(さたけよししげ)、「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)父子とともに、佐竹家全盛期となった戦国時代を支えました。そんな根本里行愛用の平三角槍(ひらさんかくやり)が、刀剣ワールド財団に伝来。根本里行の生涯と愛用の平三角槍について詳しくご紹介します。
「佐竹家」(さたけけ)とは、平安時代に常陸国佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に住んで佐竹と名乗った、清和源氏義光(せいわげんじよしみつ)流の一族のこと。なかでも、戦国時代に活躍した「太田城」(茨城県常陸太田市)の城主「佐竹義重」(さたけよししげ)、「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)父子が有名です。
佐竹義重は、不気味な毛虫の甲冑(黒塗紺糸縅具足:くろぬりこんいとおどしぐそく)を纏い「鬼義重」と呼ばれた猛者。長男・佐竹義宣と共に「織田信長」、「豊臣秀吉」に仕えて武功を挙げ常陸国を統一し、545,000石余を安堵されました。なお、佐竹義宣も「豊臣政権の六大将」に選ばれています。
「根本里行」(ねもとさとゆき)は、そんな佐竹家に先祖代々仕えてきた譜代大名です。1570年(永禄13年/元亀元年)佐竹義重が下野国(現在の栃木県)を攻めた「大山田城の戦い」で武功を挙げ、紀伊守(現在の和歌山県、三重県南部の地方長官)に任命。1577年(天正5年)には東河内にあった佐竹氏直轄領の経営を委任されました。
さらに、1586年(天正14年)、佐竹義重は長男・佐竹義宣に家督を譲ると、1590年(天正18年)、当時7歳だった三男「佐竹貞隆」(さたけさだたか)のちの「岩城貞隆」(いわきさだたか)を、陸奥国磐城国(現在の福島県)の岩城家(佐竹義重の母方の家系、120,000石)へと養子に出します。このとき、根本里行を付き人に抜擢。根本里行は岩城貞隆の重臣・家老となり、「岩城平城」(いわきたいらじょう:福島県いわき市)に入城したのです。
根本里行が家老となった岩城家の運命を変えたのは、1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」です。
ご隠居・佐竹義重は、時流を読み、佐竹家は東軍・徳川家康側に付くようにと提言します。しかし、長男・佐竹義宣は「石田三成」と懇意にしていたため、西軍・石田三成側に付くと言い出し、意見が対立したのです。
父と友の間で悩んでいた佐竹義宣ですが、ようやく父の思い通り東軍に付くことを決意。「上田城」(長野県上田市)を攻撃していた「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に援軍を出しましたが、関ヶ原の戦いには間に合わず、不参加となってしまいました。これにより、実兄・佐竹義宣に従っていた岩城貞隆も関ヶ原の戦いに参加できず、これが大変な事態となったのです。
関ヶ原の戦いは結局、東軍・徳川家康側が勝利。徳川家康は態度が煮え切らず、関ヶ原の戦いにも間に合わなかった佐竹家・岩城家に対して憤り、処分するという話になりました。これを知ったご隠居・佐竹義重は、徳川家康に対して必死で謝罪。この結果、1602年(慶長7年)、佐竹家は540,000石から200,000石へ減俸となり、出羽国秋田郡(現在の秋田県)へ転封することになったのです。
一方、岩城家はすべての所領没収というとんでもない事態となりました。これに対して岩城貞隆と家老・根本里行は、あまりにも不当な処分だと訴えたものの、却下。これにより岩城家は離散し、岩城貞隆は江戸に上って浪人となりました。そこから再興に励み、1615年(慶長20年/元和元年)「大坂夏の陣」で戦功を上げ、1616年(元和2年)に信濃国中村(現在の長野県)に10,000石を与えられ、大名として復帰しています。
一方、根本里行は再び佐竹義宣の家臣に戻り、出羽国秋田郡に同行。佐竹義宣は佐竹家の立て直しに尽力し、「久保田城」(秋田県秋田市)を築き、久保田藩は450,000石にまで成長しました。佐竹義宣は子宝に恵まれませんでしたが、岩城貞隆の長男「佐竹義隆」(さたけよしたか)を養子縁組。佐竹家は、明治時代には侯爵に叙せられ、現在も存続しています。
「平三角槍 銘 常州高田住英定作永禄八天九月日」は、根本里行の注文により、常州高田(現在の茨城県稲敷市高田)の刀工「英定」(ひでさだ、ふささだ)が作刀した1振です。
刃文(はもん)の皆焼(ひたつら)は恐ろしいほどに覇気があり、見事。
穂(ほ)が平三角造(ひらさんかくづくり)の平三角槍で、太樋(ふとび)中に、「富士大権現」と文字が書かれています。富士大権現とは、根本里行が信仰した「浅間神社」の旧称です。浅間神社は富士山をご神体として武家の崇高を集めた神社。根本里行も武運長久を願い、作刀を依頼したと考えられるのです。