戦国武将達は戦のない平時、1日をどのようなスケジュールで過ごしていたのでしょうか。戦国武将と言えども、いつも戦に明け暮れていたわけではありません。平時は来たるべき戦時に備え、大名は領地の内政や外交を、その家臣達は割り当てられた仕事をこなしながら、同時に学問の習得や武芸の稽古に励んでいました。大名やその家臣の典型的な1日のスケジュールを見ながら、彼らの日常を想像してみましょう。
戦国武将の1日は「日の昇る前に起き、日が暮れたら寝る」という、とても規則正しいものでした。当時は灯明皿(とうみょうざら:油に灯芯を浸して点火し、明かりとして使用する)ぐらいしか明かりを得る手段がなく、夜になると一気に暗くなるため、行動が制限されたからです。
また、戦のない平時に大名が気を緩めて不規則な生活を送れば、それが家臣に悪い影響を与えてしまいます。そのため大名は率先して規則正しい生活を実践し、家臣達の模範となるよう心がけました。
なかでも規則正しい生活を送っていたことで知られるのが伊達政宗(だてまさむね)です。「東北の雄」(とうほくのゆう)、「奥州王」(おうしゅうおう)といった異名を持つ伊達政宗は、その勇猛な印象とは反対に、健康への意識がかなり高かったと言われています。伊達成実(だてしげざね)が記した「伊達記」(だてき)には、従兄弟である伊達政宗の1日が細部にわたって書き込まれています。
髪を束ねてから手水(ちょうず:現代の洗面所)で顔を洗い、小姓(こしょう:雑用係)の用意した虎の毛皮の上に座り、煙草を一服する。
閑所(かんじょ:現代の書斎)に入り、その日の行動予定や家臣への指示内容の確認、書状の執筆をする。
閑所で2時間ほどかけて1日の執務に必要な準備をしたのち、水屋(みずや:水を扱う場所)で行水。居間で寝間着(ねまき)の小袖(こそで)から普段着用の小袖に着替え、足袋(たび)を履き、小姓に髪を結わせている間に、家臣達に指示を与える。
表座敷(おもてざしき:客間として使用する座敷)で、指名した家臣ら数名を伴って朝食を摂る。食事中は伊達政宗を含む全員が足を崩すことなく、正座で食べながら軍事や内政、外交について意見交換。食後は足を崩し、お茶を飲み、菓子を食べながら談笑した。ここでも煙草を一服。
領国内の政務や決裁、外交関係の業務、あるいは領国の視察をかねて鷹狩りへ出かけたり、招待客の接待で昼から酒を飲んだりすることもあった。
戦国時代は1日2食が基本だったため、昼食はなし。小腹が空いた場合は、この時間に菓子や果物を食べ、煙草を吸い、息抜きをした。
再び閑所にこもり、その日の業務内容を振り返りながら、翌日の予定、やるべきことを確認。健康に気を配り、料理の知識も豊富だった伊達政宗は、この時間にその日の夕食の献立にも自ら目を通したという。
水屋で再び行水。行水は1日に1回が基本だったが、伊達政宗は朝夕の2度、寒い冬でも必ず行水をして1日の汗を流した。
夕食は表座敷ではなく、居間で摂ることが多かったが、ここでも指名した数名の家臣を伴うことが常であり、今後の軍事や政務についての話し合いが行われた。
食後のお茶と煙草を楽しんだのち、午後8時頃には就寝。煙草が流行した当時、吸いすぎで体を壊した戦国武将が多かったが、自身の健康に気を配っていた伊達政宗は、上記のように喫煙を1日に4回か5回ほどに留めていたと言われている。
では、大名に仕える一般的な家臣の暮らしはどうだったのでしょうか。日本で最初の戦国大名と言われる北条早雲(ほうじょうそううん)が遺した家訓「早雲寺殿廿一箇条」(そううんじどのにじゅういちかじょう)には、家臣の様々な心得が記されており、生活習慣についても以下のように細かく定められていました。
こういった記述の並ぶ「早雲寺殿廿一箇条」の内容から、一般的な戦国大名の家臣は、以下のようなスケジュールで生活していたと考えられています。
行水をして身支度を整え、屋敷内を見回り、神仏への礼拝を行う。
主君の屋敷、もしくは城や政庁などへ赴き、役職ごとの職務を開始する。身分の低い者は内職や畑仕事を中心に行う。
持参した弁当を食べる。家臣に朝食を用意する大名もいた。朝食後、仕事を続行。仕事の合間に武芸の稽古をする。
仕事を終えて帰宅。夕食を摂る。当時は1日2食が基本だった。
屋敷の門を閉じ、以降の時間にやってきた客は急用でない限り受け付けない。
屋敷内を見回り、火元の始末をしてから眠る。
パッと見ると、先に紹介した伊達政宗と大きく変わりませんが、起床時間は午前4時頃と早く、午前6時頃に出仕してからは朝食を食べる以外は基本的に働き通しであることが分かります。確かに大名を現代の「社長」とすれば、その家臣達は「社員」にあたります。社長と同じ時間に起きていては、業務に支障をきたすことは間違いありません。
また、当時は1日2食の時代です。彼らは大名のように間食を摂ることもなかったので、午後2時頃の夕食まで空腹で働いていたことになります。
徳川家康の娘婿である池田輝政(いけだてるまさ)は、大名の宝は「領民」、「譜代の家臣」、「鶏」であると家臣に説いたと言われています。「領民」、「譜代の家臣」は分かるにしても、「鶏」とはどういう意味なのでしょうか。池田輝政本人は、その3つの「宝」について、こう語ったそうです。
「敵国に攻め込んだときの合図は、どんなものを使っても敵に知られてしまうもの。だから、一番鶏の鳴き声で起床し、二番鶏の鳴き声で食事をし、三番鶏の鳴き声で出陣するよう心がけておけば、敵方に悟られることはない」
池田輝政は、鶏の鳴き声が合戦の合図として有益なものであることを説きながら、同時に一番鶏の鳴き声が聞けるように早起きすることを多くの家臣に表明しようとしたのでしょう。
このように戦国武将は戦時以外、規則正しい生活を送っていたようです。不規則な生活は心身のバランスを崩し、いざという時に本来の実力を発揮できなくなります。いつ戦が始まっても全力で戦えるよう、戦国武将は常日頃から規則正しい生活を心がけていたのでしょう。