今も昔も、日常生活の基本となるのが「衣食住」です。戦国武将は、普段どのような服を身に着け、どのような食事を取り、どのような家に住んでいたのでしょうか。それは現代の私達とまったく違うものだったのでしょうか。戦時に甲冑を身に着け勇猛に戦った彼らの平時のファッションや食べ物、生活の拠点がどんなものだったかを紹介しながら、歴史小説や大河ドラマでは描かれることのない武将達の普段の姿を想像してみましょう。
まずは衣食住の「衣」について。戦国時代の衣服で、すべての身分の人々に共通するのが小袖(こそで)の着用です。男女にかかわらず、武士階級から庶民階級まですべての人が身に着けていたと言われています。古くは奈良時代から着用されていたという記録が残っていますが、平安時代までの小袖は現代の下着にあたる物でした。
しかし鎌倉時代以降、武家が政治的・社会的に存在感を増すようになって以来、貴族階級が着用した束帯(そくたい:平安時代以降の貴族の礼服)や直衣(のうし:平安時代以降の貴族の平服)が簡略化されるように。実用性・機能性が重んじられ、下着だった小袖が上着として着用されるようになったのです。
小袖は男女や身分の差にかかわらず着用されましたが、形や着こなしには多少の違いがありました。戦国武将の場合は、小袖に肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)を組み合わせるのが一般的な平服のスタイルだったようです。肩衣は、小袖の上から着る袖のない羽織のような物で、肩幅を広く見せるような形状が特徴。その動きやすさから陣中で着用されるようになり、平服としても普及していったとされています。袴は現在のズボンやスカートにあたる物です。
時代を経るにしたがって裾を絞ったデザインが多くなっていくのですが、これは馬に乗る際に裾が邪魔にならないよう考慮されたからと考えられています。戦国武将のファッションの変遷は、根底で必ず実用性・機能性と結び付いているのです。
公的な場では、直垂(ひたたれ)と烏帽子(えぼし)が着用されました。直垂の形状は現在の着物に近い物で、着物と同じように腰紐で固定して着ます。生地は主に絹を使用し、柄や模様があしらわれた装飾性の高いデザインが多く、ファッションアイテムとしては本人の個性を反映しやすい物と言っていいでしょう。
奈良時代や平安時代からあった被り物の烏帽子も、戦国時代には機能性を重視したアレンジが施され、短く折り曲げられたコンパクトな物が主流となり、従来の烏帽子と区別して侍烏帽子(さむらいえぼし)と呼ばれることもあります。また、身分の高い戦国武将の場合は直垂の5ヵ所に大きな家紋をあしらった大紋(だいもん)を着ることも多かったようです。
次に戦国武将の「食」について。戦国時代にポルトガルから来日したイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、イエズス会本部に宛てた手紙のなかで、当時の日本人の食生活について「幼少期から2本の棒[箸]を使って食べる」、「米を主食としている」、「汁物[味噌汁]を好む」、「魚は煮る、焼くだけでなく、生でも食べる」などと記述しています。
戦国時代は1日2食が基本でした。特別な接待や饗宴の時間が設けられる場合を除いて、人々は身分にかかわらず午前8時頃に朝食を取り、午後2時頃に夕食を取りました。献立は一汁一菜(いちじゅういっさい:汁物一品、惣菜一品の食事)と米を基本とした簡素な物で、これも身分にかかわらず共通する習慣でした。
食生活においても戦国武将達はある種の実用性・機能性を重んじました。戦乱の世を生き残るためには、しっかり食べなければならない。その一心で、量は少なくても確実に体力のつく、即効性のある食べ物を取ることを心がけていたのです。
当時の主なエネルギー源は米でした。それは現代の日本と変わりません。なかでも現代の玄米に近い粗搗き(あらつき:ザラっとした質感を残す精米法)の黒米(くろまい)が、多くの人々の主食だったと言われています。武士の場合、上層部から足軽まで一律で1日あたり5合(約750g)の黒米が支給されたという記録があり、1日2食とは言え主食の米は大量に食べていたことが分かります。過酷な時代を乗り切るためには、これくらいのエネルギー量が必要だったということでしょう。
当時の白米は贅沢品で、身分の高い者だけが口にできる物でしたが、人一倍健康に気を遣ったと言われる徳川家康のように、身分が高くても粗食を重視した戦国武将もいました。当時の黒米の食べ方は、大きく分けて2種類。ひとつは釜でやわらかく炊いた「姫飯」(ひめいい)、もうひとつは「せいろ」で蒸し上げた「強飯」(こわいい)です。強飯は、汁をかけて食べるスタイルが好まれていたようです。
平時の惣菜は野菜の煮物や漬物、梅干し、納豆、海苔などが中心で、戦時には魚や鳥など栄養価の高い物も食べました。汁物は多くの場合が味噌汁で、締めとして米にかけてかき込むのが一般的なスタイルでした。味噌は米と並んで当時の重要な栄養源で、戦時は味噌を平たく伸ばして干し上げた「干味噌」(ほしみそ)や丸薬状に丸めて俵に詰めて戦地に持ち込まれた「玉味噌」(たまみそ)、里芋の茎などで作った縄を味噌汁で煮てから干して乾燥させ、腰に巻き付けて携帯した「芋がら縄」(いもがらなわ)などが戦時には重用されていました。
最後に「住」についてご紹介します。大名から地方の武士まで、戦国時代に活躍した彼らの住む邸宅は総じて「武家屋敷」と呼ばれています。室町幕府が開かれる以前の社会では、武士の住居は貴族の「寝殿造」(しんでんづくり)を模した物が一般的でした。
寝殿造はもともと平安時代に始まった建築様式で、敷地の中央に主人の住む「寝殿」が置かれ、東西北の三方向に家族の住む「対の屋」(たいのや)が南側から見て左右対称に見えるように配置されます。南側には池や庭園が置かれるなど、かなり大がかりな建築であるため、武士の生活様式には向かず、室町時代に入ると「主殿造」(しゅでんづくり)が武家屋敷の主流となります。
これは左右対称にこだわることなく、独立した機能を持つ建物を敷地内に建てる様式で、特に決まったスタイルがあるわけではありません。例えば甲斐(かい:現在の山梨県)の武田氏の屋敷を見てみると、訪問客が来たときに接客スペースとして使われる「主殿」(しゅでん)を敷地の中心に配置し、その北側に「奥向」(おくむき)と呼ばれる家主のプライベートスペースや、家主の妻子が暮らす対の屋、風呂、台所などが設けられていました。
主殿の南側は「表向」(おもてむき)と呼ばれる、政務や接客をするためのパブリックスペースです。ここには公式な接待の場として使われる「本主殿」(ほんしゅでん)などが設けられました。
もちろん、武田氏は数多くの戦国大名のなかでも特に有力な一族ですから、この屋敷は当時としては「豪邸」で、どの武家屋敷もここまで大がかりだったわけではありません。中級武士の屋敷は、より建物数の少ない簡易的な住居となり、さらに身分の低い足軽などは長屋暮らしが基本でした。同じ武士とは言え、そこには大きな格差があったのです。
このように、戦国時代は衣食住においても実用性や機能性が重要視されていました。いつ戦が始まるかもしれない時代、人々は暮らしの中でできる限りの工夫をし、戦乱の世を生き抜こうとしていたのかもしれません。