過酷な生存競争が絶え間なく続いたであろう戦国時代、当然ながら生活していくためのお金も必要でした。領国の経営や軍備の増強には膨大な資金が必要となるため、各国の領主は税収や鉱山経営、地の利を活かした商業や貿易など、様々な方法を使って資金を捻出する必要があったのです。戦国武将達がどのような方法でお金を集めていたのか、その収入源を順に見ていくとともに、戦国武将の家臣達の懐事情にも迫ります。
まずは戦国武将の収入源について見ていきましょう。戦国武将の収入源は、大きく分けて「年貢」、「鉱山経営」、「商業・貿易」、「合戦」の4つとなります。
なかでも収入として圧倒的に大きいのが、領内の農民から徴収する「年貢」です。年貢とは、農民に課せられる税で、田の年貢は米、畑の年貢は金銭と畑で収穫した作物で納められました。年貢の他にも「段銭」(だんせん:田畑一反あたり課せられる税の一種)や「棟別銭」(むねべちせん:家屋の棟数別に課せられる税の一種)といったものもありましたが、年貢も段銭も棟別銭も大きな括りで言えば「税収」のなかに含まれます(段銭は現代の固定資産税、棟別銭は現代の家屋税に該当する)。
年貢徴収の方法には、「貫高制」(かんだかせい)と「石高制」(こくだかせい)がありました。貫高制は鎌倉時代や室町時代から行われていた徴収方法。田で収穫できる米の平均量を通貨に換算して「貫文」という単位で表します。例えば北条早雲(ほうじょうそううん)を祖とする相模(さがみ:現在の神奈川県)北条氏の基本貫高は、田1反(991.74平方メートル、300坪)に対して500文(1文は約50円、500文は約25,000円)、畑1反に対して165文(約8,250円)でした。
農民は、田1反を耕作するにあたり年貢を500文、畑1反なら165文を年貢として支払う必要がありました。これに基づいて計算すると、平均的な田1反を耕作する農民は、収入の約4割を年貢として納め、6割を所得とする計算になります。つまり、「公」と「民」の比率は「四公六民」というわけです。
なお、当時の日本は自国で十分に流通させるだけの貨幣量を確保することができなかったため、戦国時代に入ると貫高制が用いられることが次第に減り、代わりに「石高制」(こくだかせい)が採用されるようになりました。貫高制が土地の広さを基準に課税するのに対し、石高制は土地の平均収穫量を基準に税が課せられます。
また、貫高制は土地の所有者の自己申告でしたが石高制は実際に土地の検地を行い、収穫量を調べたため脱税のリスクを減らすことができたのです。
そして、豊臣秀吉が1582年(天正10年)から1598年(慶長3年)頃まで行った「太閤検地」(たいこうけんち:豊臣秀吉が日本全土で行った検地)の終了後、年貢徴収の方法は完全に石高制に移行しました。
さらに、戦国時代には食品や日用品、工芸品といった商品が市場に流通し、経済が活性化しました。こうしたなかで、農民だけでなく商人からの税収にも力が入れられるようになります。
豪商などの富裕層からは「有徳銭」(うとくせん)と呼ばれる税金が徴収された他、「座」(ざ:現代の同業者組合のような団体)の特権を認める対価として課せられた「市場銭」(いちばせん)などもありました。
年貢に次ぐ収入源は「鉱山経営」。鉱山を所有する戦国武将は、鉱山収入もかなりの額にのぼったようです。鉱山は当然ながらどの領国にもあるわけではなく、鉱山を持つ領国はそれだけでかなりの経済的な恩恵を受けました。
なかでも甲斐(かい:現在の山梨県)武田氏は、現在の山梨県甲州市に位置する黒川金山(くろかわきんざん)など、複数の金の産出地に恵まれました。駿河(するが:現在の静岡県中部)の今川氏も領内に富士金山(ふじきんざん)などからの産金収入があったと言われています。
また、現在の島根県大田市にある石見銀山(いわみぎんざん:世界遺産としても有名な鉱山)は、大内氏と毛利氏が熾烈な争奪戦を繰り広げました。その結果、毛利元就(もうりもとなり)が領内に石見銀山を治め、のちに潤沢な資金源としました。
「商業・貿易」も資金調達に欠かせない手段でした。大友宗麟(おおともそうりん)や松浦隆信(まつうらたかのぶ)、大村純忠(おおむらすみただ)といった九州地方の戦国武将は、ポルトガル船による南蛮貿易から大きな利益を得ていました。
また、土佐(とさ:現在の高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、平地が少ない代わりに山林資源が豊富という土地の特徴を活かし、木材や茶、漆、錦などを特産品として奨励。商業の活性化を図りました。
同じく地元の特産品に目を付けたのが陸奥(むつ:現在の宮城県、福島県)の伊達政宗(だてまさむね)です。領内に塩田を開発し、塩だけで年間3,000両(現代の金額に換算すると約3億円)の利益を生んだ他、「仙台味噌」や「柳生和紙」、養蚕などの製造に力を入れました。
そして「合戦」。他国と戦をして勝利した場合、自国には「礼銭」(れいせん)と呼ばれる敗戦国からの賠償金が多かれ少なかれ支払われます。
他にも一種の臨時軍事調達である「矢銭」(やせん)という収入源もありました。織田信長は1568年(永禄11年)に足利義昭(あしかがよしあき)を擁立して上洛をする際、大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)に5,000貫文、自治都市として知られた堺・和泉の会合衆(えごうしゅう:都市の自治活動を指導する組織)に2万貫文(現代の金額に換算するとそれぞれ約5億円、約20億円)を請求。「矢銭を出さなければ侵攻する」という意志をちらつかせ、軍事費を徴収したのです。
また、合戦に勝利した国は敗戦国でたびたび「乱取り」(らんどり)と呼ばれる略奪行為を行いました。これは領国や戦国武将の利益になったわけではありませんが、身分の低い下級家臣や足軽にとっては直接的な収入源であり、戦利品でもありました。敵の武具や持ち物、金品を奪うだけでなく、農民達の家を襲い、家財道具や食糧を奪いました。
乱取りには物品だけでなく人間も対象として含まれていたと言われています。つまり、乱取りによって敗戦国の人間を拉致し、人身売買の市を開き、およそ5貫から10貫(現代の金額に換算すると約75万円から150万円)で売買したのです。人身売買は国内だけにとどまらず、欧州など海外へ売られるケースも少なくありませんでした。
では、戦国武将に仕える家臣達はどのように給与を受け取っていたのでしょうか。家臣の俸禄(ほうろく:戦国武将に仕える家臣が受け取る給与)は、身分によって大きく3種類に分類されます。最も身分の高い上級家臣の俸禄は「知行取」(ちぎょうとり)と呼ばれ、戦国武将から土地を与えられ、そこからの税収を自分のものにすることができました。
俸禄の形式として知行取に次ぐのが「蔵米取」(くらまいとり)です。これは米の現物が支給されるもので、下級家臣はこの形式で俸禄を受け取る武将が多かったようです。さらに身分の低い足軽などの家臣には「禄米制」(ろくまいせい)という形式が採用され、金銭支給が基本でした。
当時の家臣達の推定年収を1貫=15万円のレートで換算すると、知行取の上級家臣は100〜500貫(現代の金額に換算すると約1,500〜7,500万円)、蔵米取の下級家臣は50貫(約750万円)、禄米制の足軽は1貫500文(約20万円)となり、同じ家臣でも身分によってまったく待遇が異なることが分かります。
ここまで紹介してきたように、戦国武将は様々な方法で収入を得て自国の強化に努める必要がありました。歴史に名を残す戦国武将となるためには、「経済力」も重要な要素だったのかもしれません。