日夜戦いに明け暮れ、娯楽に興じる時間などなかったように思われる戦国武将にも日常があり、娯楽でひと息つくことは気分転換を図る上でも不可欠でした。ひと言に娯楽と言っても、その内容は多種多様。
アウトドア系では、「鷹狩」、「相撲」などが人気でした。そしてインドア系では、「囲碁・将棋」、「賭博」、「双六」といった純粋な意味で「遊び」に近いものから、「読書」、「能・舞・歌舞伎」、「茶の湯」、「和歌・連歌」といった教養のために嗜まれたものまでいろいろあり、身分の高い戦国武将ほど自身の学びとして、あるいはコミュニケーションの手段として多くの娯楽に手を広げました。
そんな戦国武将の娯楽の数々にスポットを当ててみます。
アウトドア系の娯楽として人気が高かったのが「鷹狩」です。鷹は飼育するためにかなりの経費がかかるため、身分の高い戦国武将にしかできない娯楽であり、鷹狩を嗜むことは戦国武将にとって大きなステイタスでした。鷹狩とはその名の通り、鷹を使って行う狩猟です。飼い慣らした鷹を山に放ち、野鳥やウサギなどを捕獲します。鷹を放つことから「放鷹」(ほうよう)と呼ばれることもありました。
鷹狩を好んだ戦国武将と言えば、徳川家康がよく知られています。健康に気を遣った徳川家康は、適度な運動にもなるということで頻繁に鷹狩を行いましたが、皮肉なことに鷹狩の最中に倒れ、3ヵ月後の1616年(元和2年)に亡くなっています。
また、織田信長も鷹狩好きとして知られました。そのため、織田信長と交流を結びたい戦国大名は、こぞって鷹を献上したと言われており、記録に残っているだけでも上杉謙信(うえすぎけんしん)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)、伊達輝宗(だててるむね)、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)、柴田勝家(しばたかついえ)、北条氏政(ほうじょううじまさ)といった面々から鷹が贈られています。
一方で織田信長は、かなり熱心に「相撲」にも取り組んでいました。相撲は古代から行われており、もともとは五穀豊穣(ごこくほうじょう)を占うための儀礼の一環だったと言われています。室町時代頃から職業的な相撲取りが現れ、各地を巡業するようになりました。
織田信長の伝記である「信長公記」(しんちょうこうき)によると、織田信長が相撲を取ったことが初めて記録されているのは、彼が30歳代半ばだった1570年(元亀元年)。
近江(おうみ:現在の滋賀県周辺)の国内から名うての相撲取りを300人集めて大会を行い、見物した他、公家などの前で自身が相撲を取ったこともあるそうです。現代の土俵の原型を考案したのも織田信長だと言われています。
「囲碁」の歴史は古く、奈良時代には中国から伝わっていたとされています。室町時代以降、僧侶や公家の間で流行し、真田昌幸(さなだまさゆき)は囲碁の愛好家だったようです。
将棋は鎌倉時代あたりに日本に持ち込まれていますが、当初の将棋は駒の数が計130枚もある大がかりな物だったと言われています。
しかし、ルールが複雑で、ひとつの勝負に長い時間がかかることから簡略化されていき、現在のような形に落ち着きました。越前(えちぜん:現在の福井県北部)の朝倉氏の遺跡から、1558年から1570年の永禄年間に使われたと思われる将棋の駒が発見されています。
「賭博」も、すでに戦国時代には多くの人の娯楽になっていました。賭けの対象になったのは、鶏を戦わせる「闘鶏」(とうけい)、平安時代には貴族の遊びとして知られた「蹴鞠」(けまり)など。サイコロを振り、目の数が大きい方が勝ちというシンプルなルールで勝負を競う「目増」(めまし)も人気で、負けた方は金品などを提供していました。
目増などと同じように、賭博の一種として遊ばれたのが「双六」です。当時の双六は、現在イメージされるボードゲームのような形式とは異なりました。碁盤や将棋盤に似た分厚い木板で作られた盤の上に、各自がそれぞれ白と黒の駒を15ずつ並べ、2つの賽(さい:サイコロのこと)を投げ、目の数の合計で駒を進め、早く敵陣に入った方が勝ちとするゲームでした。
自由にならないもの(融通の利かないもの)の例えとして、京都・賀茂川の水や比叡山・延暦寺の僧侶と並んで双六の賽の目が挙げられるなど、当時は幅広い人々に愛される娯楽でした。
身分の高い戦国武将が、社交の場における嗜みとしたのが「能・舞・歌舞伎」です。これらは自分達が演じるのではなく、鑑賞の対象として広まったもので、戦国武将達がパトロンとなり、演者を金銭的に援助することによって発達しました。
平安時代に生まれた「猿楽」(さるがく)をベースに、室町時代の世阿弥(ぜあみ)・観阿弥(かんあみ)らによって確立された能は、室町時代には足利将軍の、戦国時代には豊臣秀吉らの庇護を受けました。猿楽師の金春大夫(こんぱるだゆう)をお抱え役者として雇い、様々な社交の場で登用したと言われています。
豊臣秀吉は演者を援助するだけでなく、自身も天皇の面前で演じて見せるほど能を好みました。また、伊達政宗(だてまさむね)も関山・中尊寺(かんざん・ちゅうそんじ)の能楽堂を保護し、自身も幼少期より能を嗜んでいたことで知られています。
織田信長は、舞のなかでも曲舞(くせまい:伴奏に合わせ、男性が扇を持って舞うもの)の一種である「幸若舞」(こうわかまい:桃井幸若丸を創始者とする舞の一派)を愛好したことで知られています。1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)に際して「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり」という一節で始まる「敦盛」(あつもり)を舞ったエピソードは、とりわけ有名です。
歌舞伎は能や舞の流れを受けて生まれた、比較的新しい芸能で、戦国時代の女性芸能者、出雲阿国(いずものおくに)が創始者と言われています。奇抜な格好をする「傾く」(かぶく)という言葉が歌舞伎の語源で、舞踊にセリフをかけ合わせた総合演劇として確立されました。
出雲阿国については詳しいことが明らかになっていませんが、1603年(慶長8年)に華麗な男装で舞台に登場し、現代につながる「歌舞伎踊り」を見せたとされています。この時期より庶民の間にも熱狂的なファンが生まれ、歌舞伎は大衆の娯楽として定着していきました。
能・舞・歌舞伎と同じく、お金と地位を必要とする娯楽が「茶の湯」、「和歌・連歌」です。能・舞・歌舞伎が主に鑑賞の対象であるのに対して、茶の湯や和歌・連歌は自ら習得するもので、それなりの指導を受けるために一定のお金が必要となり、特に茶の湯は道具も高価であったことから、身分の高い戦国武将にしかできない娯楽でした。
織田信長や豊臣秀吉に茶の湯の指導を行ったのが千利休(せんのりきゅう)です。2畳あるいは1畳半の簡素な茶室で日常性を重視した「侘び茶」で知られ、蒲生氏郷(がもううじさと)、細川忠興(ほそかわただおき)、高山右近(たかやまうこん)ら「利休十哲」(りきゅうじってつ)と呼ばれる弟子を生みました。
和歌については、戦国武将でありながら「古今和歌集」の秘伝を授けられるほどの存在となった細川藤孝/細川幽斎(ほそかわふじたか/ほそかわゆうさい)が知られています。彼が三条西実枝(さんじょうにしさねき)から受け継いだ「古今伝授」(こきんでんじゅ:「古今和歌集」の解釈を口伝や書物で弟子に伝えること)は、本来は一子相伝の奥義(いっしそうでんのおうぎ:自分の子にだけ秘技を伝えること)だったのですが、三条西実枝の実子が幼かったことから高弟の細川幽斎に伝授されたのです。
和歌と並んで人気のあった連歌は、五・七・五の上の句と七・七の下の句を別の者が詠むルールで、百句で完成されます。戦国武将は家臣との交流や一体化を目的として連歌会をたびたび催しました。戦への出陣にあたり勝利を祈願して神社に連歌を奉納することもあったようです。
特に連歌を愛好した戦国武将が、真田幸村(さなだゆきむら)の名で知られる真田信繁(さなだのぶしげ)。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で石田三成(いしだみつなり)の西軍に属し、徳川家康の東軍に敗れた真田幸村(真田信繁)は、高野山に流罪となり、そこでの退屈な日々から連歌に興味を持ったと言われています。様々な書状に連歌を学んだことが書かれており、相当な熱の入れようだったようです。
ひとたび戦となれば武器を持ち、命がけで戦うことを余儀なくされた戦国時代。戦国武将達は常に緊張感と隣り合わせの日々を過ごしていました。そんな戦国武将達にとって、趣味や娯楽を楽しむ時間は数少ない心安らぐ時間だったのかもしれません。