日本には「八百万神」(やおよろずのかみ:多種多様な神)という言葉があるように、古代より多くの神と宗教が信仰されていました。戦国時代に信仰された宗教は、大きく「神道」(しんとう)、「仏教」、「キリスト教」、「修験道」(しゅげんどう)の4つ。神道は日本固有の宗教であり、仏教は朝鮮経由で中国から、キリスト教はポルトガルからそれぞれ伝来しました。修験道は、神道に様々な要素が組み合わさって日本で生まれたものです。
それぞれの宗教の成り立ちと、戦国武将達がどのような宗教を信仰し、自身の生き方や政治活動に活かしていたかを紹介します。
日本では、3世紀前半に女王・卑弥呼(ひみこ)が30ほどの小国が集まった連合国である「邪馬台国」(やまたいこく)をつくりました。その後、3世紀後半頃には現在の近畿地方に「大王」
(おおきみ)や「豪族」(ごうぞく)を中心とする連立政権の「ヤマト王権」(やまとおうけん)が形成されるなど、次第に国家的な組織が見られるようになります。そのヤマト王権において信仰されていたのが神道です。
神道は「シャーマニズム」(神や霊魂と交流できる巫女・祈祷師を崇める信仰)や「アミニズム」(すべての有機物・無機物に霊魂が宿っているという考え方)を起源とした日本固有の宗教であり、「国祖神」(くにそしん:氏族の先祖を神として祀ったもの)や「氏神」(うじがみ:地元の神)が崇拝されました。
各地に造営された神社のなかでも「一宮」(いちのみや:その地域で最も格式の高い神社)や「総社」(そうじゃ:その地域で信仰される複数の神を祀った神社)への人々の信仰は厚く、それは戦国武将達も同じでした。各地の戦国武将は、一宮や総社を新たに造営したり修繕したりして、合戦の際は勝利を祈願するなど、ことあるごとに神社を参拝しました。
神道を信仰していた戦国武将と言えば、「諏訪大社」(すわたいしゃ)に祀られている「諏訪明神」(すわみょうじん)を信仰していた武田信玄(たけだしんげん)が有名です。
武田信玄は戦時になると「諏方南宮上下大明神」(すわなんぐうじょうげだいみょうじん)や「南無諏方南宮法性上下大明神」(なむすわなんぐうほっけじょうげだいみょうじん)といった軍旗を本陣に立てることで、自身が諏訪大社の加護を受けている印象を与え、敵陣を精神的に圧倒したと言われています。
仏教は、6世紀に朝鮮半島を経由して中国から伝来しました。奈良時代には国家的な宗教になり、聖武天皇(しょうむてんのう)は741年(天平13年)、全国各地に「国分寺」(こくぶんじ)と「国分尼寺」(こくぶんにじ)の建立を命じました。当時の仏教は、主に国家鎮護(こっかちんご:国の災いを鎮め、安泰にすること)が目的で、「南都六宗」(なんとろくしゅう:平城京を中心に栄えた6つの仏教宗派の総称)や「天台宗」(てんだいしゅう)、「真言宗」(しんごんしゅう)といった宗派が尊重されました。
鎌倉時代になると「浄土宗」(じょうどしゅう)、「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)、「時宗」(じしゅう)、「法華宗」(ほっけしゅう)、「臨済宗」(りんざいしゅう)、「曹洞宗」(そうとうしゅう)などが次々に開宗され、個人の救済を目的として一般の人々の間にも浸透。そして室町時代には、室町幕府が積極的に支援した「禅宗」(ぜんしゅう)が武士を中心に信仰されるようになりました。
仏教を信仰した戦国武将としてよく知られるのは上杉謙信です。幼い頃に出家して、林泉寺(りんせんじ:新潟県上越市にある曹洞宗の寺院)で禅を学んだ上杉謙信は、成人すると軍神として知られる「毘沙門天」(びしゃもんてん)を熱心に信仰するようになりました。
毘沙門天は「持国天」(じこくてん)、「増長天」(ぞうじょうてん)、「広目天」(こうもくてん)とともに仏教の四天王とされる仏で、その姿の多くは甲冑(鎧兜)を身に着けた武将として描かれます。上杉謙信は、自身をこの毘沙門天の生まれ変わりと信じており、居城である春日山城(かすがやまじょう)に毘沙門天を祀る「毘沙門堂」を設けるとともに、「毘」の文字をかたどった兜と軍旗を採用しました。戦場では鉄砲の弾がまったく命中しなかったという上杉謙信の逸話も、自身を軍神の化身と信じた信仰心の強さから生まれたのかもしれません。
また、神仏を信じない無神論者とされる織田信長も、実際は神社や寺院の保護を積極的に行っていたと言われており、主に政治的な理由からキリスト教を庇護したことも知られています。織田信長の宗教弾圧として有名な比叡山の焼き討ちも、当時大きな影響力を持ち、自身の政権に反抗的だった比叡山の僧侶達を粛清するために行ったものであり、仏教そのものを弾圧することが目的ではなかったと伝えられています。
修験道は、神道や「山岳信仰」(さんがくしんこう:山岳を神々の居場所として崇拝し、儀礼を行うこと)や「道教」(老子を教祖とし、仏教・儒教とともに中国三大宗教とされている)、「密教」(みっきょう:仏教から発展した流派のひとつ)、「陰陽道」(おんみょうどう:道教から日本独自に発展した流派のひとつ)が組み合わさることで生まれたもので、「山伏」(やまぶし)と呼ばれる修験者は山に入り、厳しい修行を実践しました。
修験道を信仰したことで知られる細川政元(ほそかわまさもと)は、その教えを守って生涯独身を貫き、山中で空を飛ぶ「天狗の術」(てんぐのじゅつ)などを身に付けるため厳しい修行に励んだと言われています。
1549年(天文18年)、イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルの来日によってポルトガルから伝わったキリスト教は、ここで紹介する4つのなかでは最も遅く日本で広まった宗教です。
ヨーロッパの様々な食品や物品、鉄砲などの軍事品がもたらされた「南蛮貿易」(なんばんぼうえき)と強く結び付いていたため、多くの戦国大名は政治的、経済的な理由からキリスト教を庇護し、なかには高山右近(たかやまうこん)のように、本気でキリスト教を信仰して洗礼を受ける「キリシタン大名」も現れました。
キリスト教は「一神教」であり、「神はただひとり」とする点が多神教の神道や仏教、修験道とは異なります。冒頭で触れた「八百万神」という言葉に代表されるように、日本では早くから複数の神を信仰する習慣が根付いていましたが、キリスト教はそれを許しませんでした。キリシタン大名のなかにはこの教えを利用し、自分を含む領内すべての人々にキリスト教の唯一神を信仰することで同じ方向を向かせ、支配を円滑に行おうとする者もいました。
しかし、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発令。キリスト教の布教を禁止します。これにはいくつかの理由があったようですが、ポルトガル人が日本人を奴隷として売買するといった行動が目立つようになったことも大きな理由だったようです。
キリスト教の布教は禁止され、徳川家康が江戸幕府を開いて以降はさらに厳しい取り締まりが行われるようになりました。その後、表面上は仏教徒などを装いながらキリスト教の信仰を続けた「隠れキリシタン」なども登場し、彼らは長く苦難の時代を過ごすことになります。
ここまで紹介したように、常に死の恐怖と共に生きる戦国武将のなかには、宗教を心の拠りどころにしていた者も少なくありませんでした。しかし、宗教が人々に広まっていくにつれ、本来人を救うために生まれた宗教が争いの火種になるという皮肉な事態へと発展していくのです。