武家の当主は、ただ武芸に長けているだけでは務まりません。多くの部下を率いる戦国武将にとって、教養は欠かせないものです。しかし、当時はまだ学校のような公的な教育機関が存在しなかったため、子ども達の教育は実質的に「僧侶」(そうりょ)が担っていました。僧侶は仏教の出家修行者の男性を指しますが、戦国時代の僧侶は宗教家であり知識人、教育者の役割も果たし、寺院は宗教施設であり教育機関でもあったのです。
将来の当主として生まれた男子は、5歳か6歳で僧侶に師事し、読み書きや古典を学習。一人前の戦国武将になるために必要な教育を受けました。学問だけではなく、和歌や茶道など様々な芸術的分野にも精通する名僧を招き、子どもに幅広い教育を施すことは、戦国大名にとってある種のステータスだったのです。
そういった名僧は、子どもの親である当主にとっても文化的活動の師であり、リーダーとしての悩みを聞くアドバイザーでもありました。若き日の戦国武将達が教育者である僧侶からどのようなことを学んだのか、順を追って見ていきたいと思います。
室町時代の足利将軍家では、将来的に家督を継ぐことになる嫡男以外の子弟は寺院に預けられ、そのまま僧侶となることが通例となっていました。子ども達は規則正しい生活環境のなかで学問を習得し、人格の基礎を固めていったのです。
嫡男の場合は父親である当主に仕える僧侶を屋敷に招き、学問を教わることが普通でしたが、寺院にしばらく預けられることもありました。寺院で僧侶から厳しい教育を受け、修養に耐えながら幅広い知識を身に付け、将来リーダーとして飛躍するための学びを得たわけです。
子ども達が僧侶から最初に受ける基礎教育のひとつが「往来物」(おうらいもの)の書き写しです。往来物とは手紙の実用例がまとめられた書物で、これをそのまま書き写すことで文字を覚え、時候の挨拶や贈答への返礼方法といった文章の書き方及び社会的なマナーを学びました。
往来物のなかでも「庭訓往来」(ていきんおうらい)という書物は多彩な実用例が収録されていたため、室町時代から戦国時代、江戸時代まで子どもの読み書きの教科書として幅広く活用されたと言われています。
子ども達は往来物だけでなく、仏教の経典や漢籍(かんせき:中国大陸で記された書物)を教科書として、草書体(そうしょたい:漢字と仮名の混じった崩し文字)の書き方を習得しました。戦国時代までの初等教育では、楷書体(かいしょたい:文字の一点一画が正確に書かれた文字)はまだ教えられていなかったようです。
初等教育のカリキュラム(教育内容の計画)が確立したのは、江戸時代に私塾や「寺子屋」(てらこや:庶民のための教育施設)が発達してからのこと。戦国時代の子ども達は、ひたすら草書体で様々な書物を書き写すことで、すべての教養の基礎となる読み書きを習得したのです。
戦国武将としての知略を育むために教科書として使われたのが「平家物語」(へいけものがたり)や「太平記」(たいへいき)です。両者は古典文学としてではなく、むしろ合戦の基礎知識や戦場での立ち居振る舞い、行動哲学を学ぶための教科書として親しまれました。
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり」という一節で始まる「平家物語」は、現代では仏教的な無常観を綴った古典文学として知られていますが、当時は源義経(みなもとのよしつね)らの活躍が生き生きと描かれた合戦シーンなどが教材として使われ、子ども達はその描写から合戦の本質や実態を学んだのです。
真田昌幸(さなだまさゆき)は、「上田の合戦」(うえだのかっせん)にて上田城の下にまで迫る徳川軍に対し、巨木や大石を投げ込んで撃退しましたが、これは「太平記」における楠木正成(くすのきまさしげ)の戦術を参考にしたものだと言われています。古典で学んだ戦術を、そのまま実戦で応用したわけです。
戦国時代においては、日本の古典文学だけでなく、漢籍を読解することも知識人としての基礎教養とみなされており、読み書きを習得して日本の古典文学をひと通り学んだ子ども達は、次に中国の「四書五経」(ししょごきょう)を学びました。
四書五経とは、「論語・大学・中庸・孟子」(ろんご・だいがく・ちゅうよう・もうし)の四書と、「易経・書経・詩経・礼記・春秋」(えききょう・しょきょう・しきょう・らいき・しゅんじゅう)の五経を総称したもので、いずれも中国思想の根幹をなす重要な書物です。
徳川家康は「人は生まれながらに善良である」という性善説(せいぜんせつ)を唱えた「孟子」を愛読したと言われています。
加えて戦国時代に重要視されたのが「六韜」(りくとう)、「孫子」(そんし)、「呉子」(ごし)、「三略」(さんりゃく)といった兵法書です。なかでも「孫子」は現代においてもビジネスシーンで有用と注目されており、ご存知の方も多いでしょう。
兵法書としてだけではなく、戦いに秘められた真理を通じて人としての生き方の指標までが説かれた書物です。「敵が強いときは戦わない」、「戦は短期決戦を目指すべし」、「戦わずして降伏させることが最善の策」、「効率良く移動して差を付ける」、「兵を死にもの狂いで戦わせる方法」といった項目が挙げられ、それらについて簡潔に記された「孫子」は、実戦的な兵法を学びながらリーダーとしての哲学を育成することに適した教科書として活用されました。
読み書きが学びの「初級」、日本古典が「中級」、中国古典が「上級」とするなら、文化や芸術は「選択科目」に当たります。当時は文化や芸術に親しむことも、戦国武将としてのステータスとされました。
例えば交流の一環として隣国の領主などと催された連歌会では、五・七・五の上の句と七・七の下の句をそれぞれ別の者が詠むというルールを守りながら、当意即妙(とういそくみょう:その場に適応するように機転を利かせること)に句を詠めるよう、普段からそれなりの教養を身に付けておかなければなりません。
そのための教科書として使われたのが「源氏物語」(げんじものがたり)などの王朝文学(おうちょうぶんがく:紫式部ら平安時代の宮女を主たる書き手とした文学)や「古今和歌集」(こきんわかしゅう)や「万葉集」といった歌集でした。「源氏物語」に登場する歌の意味を自分なりに解釈したり、「古今和歌集」に収録された歌の模倣をしたりすることで、歌の詠み方を学んだのです。
若き日の武田信玄は、「源氏物語」や「古今和歌集」を好み、時間を忘れて読み耽ることがあったそうです。そこで傅役(もりやく:戦国大名の子の教育係であり側近の役割も兼任した)の板垣信方(いたがきのぶかた)が恐る恐る「歌道に励むのは結構なことですが、励むにしても度を越しています」と忠告したところ、武田信玄は涙を流して反省。以前よりも精力的に政務に取り組むようになったそうです。
しかし、武田信玄の歌への興味はなくなることがなく、快川紹喜(かいせんじょうき)などの文学の分野に詳しい僧侶を甲斐(かい:現在の山梨県)に呼び寄せ、文学や歌について熱心に語り合ったと言われています。
このように領主として家臣を率いる戦国武将は、幼い頃から勉学に励み、幅広い分野の知識や教養を身に付ける必要がありました。類まれなリーダーシップを発揮し、人々の心を掴むためには、武力と知性どちらも欠かすことができない要素だったのです。
【東京国立博物館研究情報アーカイブズより】
- 庭訓往来