日本で身分の差が生まれたのは、人々の生活が狩猟から農耕中心に変化した弥生時代あたりと言われています。以降、古墳時代に畿内(きない:現在の京都に近い地域を指す)で大きな権力を持つようになった豪族による連立政権が「朝廷」(ちょうてい)となり、その首長が「大王」(おおきみ)、つまり「天皇」となりました。そして7世紀半ばの「大化の改新」によって、朝廷は律令制度を整備。地方に「国司」(こくし:朝廷から派遣された行政官)を配置するなど、中央集権化を進めます。
そういった地方の国司の子孫が「侍者」(じしゃ)として武力団を形成したことが武士の始まりで、ついには源頼朝(みなもとのよりとも)が「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん:朝廷から任命される将軍)として鎌倉幕府を開き、政治・軍事の実権を握るまでに。天皇・皇族を頂点に、その下に天皇・皇族家に仕える「公家」(くげ)、その下に武士、さらにその下に「凡下」(ぼんげ)と呼ばれる庶民(名主・農民・足軽・商人・職人など)という身分構成が生まれ、それが戦国時代まで続くことになります。
戦国時代の身分構成を「天皇・公家」、「将軍・大名」、「国人・地侍」、「名主・農民・足軽」、「商人・職人」、「僧侶・神官」という6つに分け、それぞれの役割や仕事、社会的な立ち位置などを見ていきましょう。
古墳時代以降、日本におけるすべての身分構成の頂点にあったのが「天皇」です。古代の天皇は「権力」と「権威」を併せ持つ存在でしたが、平安時代末期に武士が大きな力を持つようになると、天皇の政治的な権力は低下していきました。
とは言え、改元(かいげん:元号の改変)や寺院への勅願寺(ちょくがんじ:天皇の発願によって皇室繁栄、鎮護国家を祈るために指定された寺院)の指定、綸旨(りんじ:天皇の命令文書)の発給、大名への官位授与といった権限は変わらず有し、一定の権力を保持。
戦国時代になっても天皇の権威が失墜することはなく、織田信長は実質的な天下人となってからも「天皇から権力を委譲されている」という形を取り、その遺志を継いだ豊臣秀吉も「関白」(かんぱく:天皇を補佐する官職の最高位)の職を得ることで自身の政権が正当であることを誇示しました。
「公家」は、天皇・皇族家に仕えた上級貴族です。公家という言葉はもともと天皇や朝廷自体を指すものでしたが、武士が台頭してきた鎌倉時代あたりから朝廷で天皇や皇族を代々支えてきた上級貴族を指す言葉に変わりました。天皇の権力が低下するとともに公家も力を失い、戦国時代には生活に困窮する者も続出したと言われています。
彼らが地方に所有していた荘園(しょうえん:公家や貴族、寺社の私有地)が武士に押領され、収入源が激減したからです。そのため、駿河(するが:現在の静岡県中部)の今川氏や周防(すおう:現在の山口県東南部)の大内氏といった有力な戦国大名を頼って都落ちする公家も少なくありませんでした。一方で、公家が地方に身を寄せたことにより、京文化が全国各地に広まったとも言われています。
「将軍」の正式名称は、先ほども触れた「征夷大将軍」です。本来は「蝦夷」(えみし)と呼ばれた東北地方の反乱を鎮圧する任務を受けて派遣された官職のことを指しましたが、鎌倉時代以降は幕府の最高権力者を表す官職となりました。
しかし、室町幕府が弱体化するとともに将軍家だった足利氏の力も弱まり、最終的には1573年(元亀4年)に織田信長が15代将軍の足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追放したことで室町幕府は滅亡。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開くまでの30年間は、征夷大将軍の官職を持つ人物が不在でした。
次に「大名」について。鎌倉幕府及び室町幕府は、いずれも地方に軍事権・警察権を持つ「守護」(しゅご)と「地頭」(じとう)を置き、各地の治安維持と警備を任せました。室町時代後半になると、天皇・公家の弱体化とともに各地の守護(=武士)や「守護代」(しゅごだい:守護によって任命され、守護に代わって領国へ赴き、政務を行う家臣のこと)が力を付け、先述のように公家の荘園を押領するように。各地の実質的な領主となったことから「守護大名」(しゅごだいみょう)と呼ばれるようになりました。
守護大名は領土の拡大に幕府の権威を利用していましたが、1573年に室町幕府が滅亡すると、幕府に頼ることなく独立して領主化を進める元守護の武士も出てきました。これが「戦国大名」と呼ばれる武士達です。彼らは荘園を否定し、自ら検地を行い、独自に「分国法」(ぶんこくほう:戦国大名が自らの領国のために制定する法律)を制定して自国の統治を行いました。
将軍や大名の配下にあるのが「国人」(こくじん)で、さらにその配下にあるのが「地侍」(じざむらい)です。国人は、鎌倉幕府の地頭や荘官(しょうかん:荘園の管理者)に源流を持つ小領主で「国衆」(くにしゅう)とも呼ばれます。
室町時代後半に守護が大名化するなかで、そのまま彼らの家臣になる国人もいれば、家臣になることを拒み、自立のために一揆を起こす国人もいました。
地侍は、平時は農業に従事し、戦時には国人にしたがって戦に赴く人々で、いわば半農半士の生活をしていた人々です。国人と地侍は、直接的な主従関係にあったわけではありませんが、「寄親・寄子制」(よりおや・よりこせい)と呼ばれる柔軟な関係で結ばれていました。寄子は与力(よりき)、つまり「加勢」を意味するもので、戦時のみ寄親である国人の指揮で動いたのです。
「名主」(みょうしゅ)は村落の指導者的な立場にある人物で、名字を名乗ることも許されていました。戦国時代の村落は「惣」(そう)と呼ばれる自治組織によって守られており、名主はこの惣の中心的な構成員でもありました。また、多くの名主は地侍でもあったため、戦時には国人にしたがって合戦にも参加したと言われています。
名主の下に位置するのが「農民」で、自らの畑で生活をまかなう「自作農」と、名主らの畑の小作を請け負う「小作農」がいました。彼らは惣に参加することが許されましたが、「脇百姓」(わきびゃくしょう)と呼ばれる農民は、屋敷を持たないなど惣の正式な構成員となる要件を満たしておらず、惣に参加することが許されておりませんでした。彼らのなかには戦時に下級歩兵の「足軽」(あしがる)になった者もいたようです。
戦国時代は、大きな都市以外ではまだ常設の店舗がなく、定期的に開かれる「市」で「振売」(ふりうり)と呼ばれる店を構えず商品を手や肩にかけて売り歩く商売が行われていました。こうした定期市で商売をする人々が「商人」で、食材や日用品、工芸品など様々な商品を販売していました。なかでも高い技術力を要する商品を作るのが「職人」です。
商人は、仕事を通じて自国以外の情報を得ることが多く、貴重な情報源として大名に重用されることもあったようです。職人は「富国強兵」が奨励されていた戦国時代において貴重な存在で、刀鍛冶師や大工の高い専門技術が領国の運営の基盤と考えられていました。
「僧侶」(そうりょ)は、仏教の出家修行者の男性を指します。「僧正」(そうじょう)、「僧都」(そうず)、「律師」(りっし)といった職階がある他、皇族や公家の人間が出家した場合は「門跡」(もんせき)と称されました。
「神官」(しんかん)は、神道において神事(祭儀や社務など)を執り行う仕事で、「宮司」(ぐうじ)や「禰宜」(ねぎ)といった職階があります。
戦国時代において、有力寺院や神社は大名と対立するほどの強い兵力を持っていました。特に仏教の「天台宗」(てんだいしゅう)や「真言宗」(しんごんしゅう)、「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)は激しく大名と対立。
織田信長は1571年(元亀2年)、天台宗の総本山である比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)との対立から、比叡山の焼き討ちに踏み切っています。
一方で「禅宗」(ぜんしゅう:大きく臨済宗と曹洞宗に分かれる)は、参謀のような役割を担い大名を支えた他、大名の子弟の指導を務めるなど、戦国大名と密接にかかわりました。
このように、戦国時代には天皇を中心とするピラミッド型の身分構成が確かに形成されていましたが、世は下剋上。身分差は流動的で、国人や地侍の身分から大名になる者もあれば、都落ちする公家もありました。なかには豊臣秀吉のように、農民のなかでも特に身分の低い生まれでありながら(諸説あり)、天下人にまで上りつめた例もあります。
このような混乱の時代を経て、徳川家康が開いた江戸幕府では、武士・農民・町民(商人・職人)と身分が明確に分けられました。武士は帯刀や苗字を名乗ることが許されたのに対し、武士以外の身分の人々には着物や食事などについて細かな取り決めを強いるなど、武士が農民や町民を支配する構造になっていました。
こうして武士がより強い権力を持つようになり、社会格差が広がっていくのです。