戦国武将の生き方

戦国時代の恋愛・結婚
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戦国時代の恋愛・結婚 戦国時代の恋愛・結婚
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下剋上の世を生きた戦国武将達にとって、最優先すべきだったのは、自らの領国と家を守ること。現代とは異なり、恋愛がそのまま結婚に発展することは稀で、ほとんどの結婚は国を守るため、家を守るための様々な政治的な思惑が絡んだ政略結婚でした。戦国時代の結婚や恋愛のあり方を紹介するとともに、その時代にあって純愛を貫いたカップルのエピソードなどについても触れていきます。

戦国時代の結婚は、ほとんどが政略結婚だった

男女が出会って結婚し、夫婦になる。基本的には男性の家に女性が嫁ぐことが多い現代日本の「嫁入り婚」が定着したのは、実は戦国時代です。大名家同士が婚姻を結ぶことは、お互いの絆を強固にするための手段であり、同盟関係を周辺諸国に見せ付ける上でも重要でした。

例えば織田信長と斎藤道三(さいとうどうさん)の娘の濃姫(のうひめ)の結婚。これは織田家斎藤家の対立を終息させるために交わされた、典型的な政略結婚でした。そして織田信長自身も、妹のお市や娘達を他の大名家に嫁がせ、勢力の拡大に利用しています。

その他、立場の弱い大名が勢力の強い大名家に娘を嫁がせることで自国の安泰を図る場合や、一門の団結と家臣の忠誠心を強化するため、家臣に娘を嫁がせる場合もありました。いずれにしても戦国時代の結婚は、ほとんどが両者の恋愛感情の有無にかかわらず、利害関係のみによって交わされるものであり、大名家に生まれた女性は、多かれ少なかれ政治の道具として利用される運命にあったのです。

3歳で前田家に嫁いだ珠姫

3歳で前田家に嫁いだ珠姫

また、戦国時代に恋愛結婚が少なかった理由のひとつに、現在よりもかなり婚期が早かったことが挙げられます。男性は「元服」(げんぷく)と、「初陣」(ういじん)を経た15歳ぐらいで、女性は初潮を迎える12歳前後が結婚適齢期とされていました。

わずか9歳で徳川信康(とくがわのぶやす:徳川家康の嫡男)に嫁いだ織田信長の娘・徳姫(とくひめ)や、物心もつかない3歳で前田利常(まえだとしつね:前田利家の四男)に嫁いだ徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘・珠姫(たまひめ)のような例もあり、恋愛経験すらないまま結婚させられた夫婦がとても多かったことは明らかです。

一門の取りまとめや政務も担っていた正室

戦国時代の結婚は一夫多妻制で、多くの戦国武将は「正室」(せいしつ:本妻)の他に複数の「側室」(そくしつ:本妻以外の妻)や「妾」(めかけ:愛人)を持ちました。正室は側室や妾よりも身分が高く、夫と並ぶ存在として一門のなかで重用される一方で、一門の女性を取りまとめ、夫の不在時には夫の代理として事務仕事もこなさなければなりませんでした。また、夫の死後は剃髪(ていはつ:髪を剃ること)して出家。夫の菩提を弔う(ぼだいをとむらう:冥福を祈る)ところまでが正室の役割だったのです。

政略結婚の多かった正室に対して、側室や妾は戦国武将が自分の好みで選ぶのが通例でした。武将に見染められることで、町人や百姓の娘でも大名家に入ることができたのです。自分で選んだ相手ゆえに、正室よりも側室や妾に愛情を注ぐ戦国武将が多かったと言われています。

当時は正室が側室や妾に嫉妬心を持つことが下品であるとされ、正室は夫の女性関係に対してただ耐えるしかありませんでした。様々な意味でこの時代の女性は現代では考えられないほど不当な扱いを受けましたが、とりわけ身分の高い正室の立場にある女性はその人生で幾度も不条理を感じたことでしょう。

愛妻家として知られた戦国武将達も

毛利元就

毛利元就

そんな戦国時代にあって、側室を持つことなく、正室だけを愛した武将も少なくありませんでした。なかでも愛妻家として知られるのが毛利元就(もうりもとなり)です。

妻の妙玖(みょうきゅう)は、のちに「毛利三傑」と呼ばれる毛利隆元(もうりたかもと)、吉川元春(きっかわもとはる)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の母で、47歳の若さで死去。

毛利元就は妙玖の存命中は側室を持たず、3人の息子の養育に夫婦で心血を注いだとされています。また、妙玖の死後は息子達に宛てた手紙のなかで「妙玖のことばかり思っている」などと思いを綴ることもしばしばあったそうです。

明智煕子

明智煕子

明智光秀(あけちみつひで)と明智煕子(あけちひろこ)も、おしどり夫婦として知られています。明智光秀は若い頃、斉藤道三(さいとうどうざん)に仕えていました。

斉藤道三が息子である斎藤義龍(さいとうよしたつ)と争ったことで、斉藤道三に仕えていた明智光秀も攻め入られ、明智城は落城。主君と城を失った明智光秀は浪人となります。

収入がなくなり苦境に立たされましたが、妻の明智煕子が自身の黒髪を売るなどして生活を支えたおかげで朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕官することができたのです。

直江兼続(なおえかねつぐ)は、養父の直江景綱(なおえかげつな)の娘である3歳年上のお船の方(おせんのかた)と結婚。お船の方は最初に直江兼続の義理の兄にあたる直江信綱(なおえのぶつな)と結婚しました。しかし、直江信綱が内紛で殺害されたため、直江家を守るために上杉景勝(うえすぎかげかつ)のすすめで彼の家臣であった直江兼続を婿に迎えます。直江兼続とお船の夫婦仲は大変良く、直江兼続は生涯にわたり側室を持つことはありませんでした。

政略結婚がほとんどだった戦国時代に恋愛結婚で結ばれたのが豊臣秀吉とおねのカップルです。おねは織田信長の家臣、浅野長勝(あさのながかつ)の養女で、一説には豊臣秀吉におねとの結婚を勧めたのは織田信長だと言われています。豊臣秀吉が25歳、おねが14歳のときに2人は清須(きよす:現在の愛知県清須市)の足軽長屋で前田利家(まえだとしいえ)を媒酌人に結婚しました。当時としてはとても珍しく、数年の同棲を経ての結婚だったと言われています。

おねは「大飯早食い、憂ごと無用」(たくさんの飯を素早く十分に食し、思い悩む時間は不要である)を信条として足軽からスピード出世する夫が連れてくる配下の面倒をよく見る妻だったとされ、家庭を顧みる必要のなかった豊臣秀吉は気兼ねなく織田信長に奉公し、ついには天下人にまで成り上がることができたのです。2人の間には子どもは生まれませんでした。50歳を超えた豊臣秀吉が側室の淀殿(よどどの)との間に豊臣秀頼(とよとみひでより)をもうけたときも豊臣秀吉はおねを気遣い、ある手紙のなかで「子どもなど別に欲しくなかった」と書いています。

男色は戦国武将の嗜みだった

鎌倉時代から、武士は合戦前に縁起を担ぎ、女性を遠ざけることがありました。それが戦国時代に「男色」(だんしょく:男性同士の恋愛)の風習を生み、やがて「衆道」(しゅどう)という嗜みにまで昇華されました。戦国武将にとっての衆道の対象は、多くが小姓(こしょう)だったとされています。小姓の主な仕事は、接待の席で芸事、主人の身支度や食事の手配、外出への同伴などで、年齢は14歳から18歳。主人の好みをよく知る家臣により、主人好みの美少年が選抜されていました。

男色を好んだ戦国武将として、伊達政宗(だてまさむね)がよく知られています。家臣の片倉重長(かたくらしげなが)と衆道関係にあったとされ、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」と1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」では先鋒(せんぽう)を志願する彼を引き寄せ、伊達政宗は涙ながらに「お前以外の誰に任せるものか」と言ったそうです。

また、武田信玄(たけだしんげん)は「武田四天王」のひとりである重臣の高坂昌信(こうさかまさのぶ)と衆道の関係にあり、彼に宛てた浮気を弁明するかのような内容の書状が残されています。

森蘭丸

森蘭丸

他に、織田信長に仕えた森蘭丸(もりらんまる)も織田信長と特別な関係だったという説があります。森蘭丸はとても気が利く小姓だったとされ、多くのエピソードが残されています。

例えば、織田信長に「障子が開いているから閉めてこい」と命じられ、森蘭丸が見に行くと障子はしっかり閉まっていたため、一度開けてから音を立てて閉めたと言われています。これは、障子が開いていると勘違いした織田信長に恥をかかせないための配慮でした。

また、織田信長が自分で切った爪を「捨ててこい」と命じたときには「切った爪がひとつ足りません」と答えたとか。切った爪の数を数えるほど、主人の行動を注意深く見ていたのです。

戦国時代における衆道は、主君と小姓の精神的な繋がりを重視したものでした。常に死と隣り合わせの戦国武将にとって、心の底から信頼できる相手を側に置くことが戦乱の世を生き抜くために必要だったのかもしれません。

厳しい戦国時代、恋愛や結婚は現代のように自由なものではありませんでした。人々は家を守るため、そして自分自身を守るために運命を受け入れ、与えられた役割を全うしたのです。

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名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
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戦国時代の身分構成

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日本で身分の差が生まれたのは、人々の生活が狩猟から農耕中心に変化した弥生時代あたりと言われています。以降、古墳時代に畿内(きない:現在の京都に近い地域を指す)で大きな権力を持つようになった豪族による連立政権が「朝廷」(ちょうてい)となり、その首長が「大王」(おおきみ)、つまり「天皇」となりました。そして7世紀半ばの「大化の改新」によって、朝廷は律令制度を整備。地方に「国司」(こくし:朝廷から派遣された行政官)を配置するなど、中央集権化を進めます。 そういった地方の国司の子孫が「侍者」(じしゃ)として武力団を形成したことが武士の始まりで、ついには源頼朝(みなもとのよりとも)が「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん:朝廷から任命される将軍)として鎌倉幕府を開き、政治・軍事の実権を握るまでに。天皇・皇族を頂点に、その下に天皇・皇族家に仕える「公家」(くげ)、その下に武士、さらにその下に「凡下」(ぼんげ)と呼ばれる庶民(名主・農民・足軽・商人・職人など)という身分構成が生まれ、それが戦国時代まで続くことになります。 戦国時代の身分構成を「天皇・公家」、「将軍・大名」、「国人・地侍」、「名主・農民・足軽」、「商人・職人」、「僧侶・神官」という6つに分け、それぞれの役割や仕事、社会的な立ち位置などを見ていきましょう。

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戦国武将の家庭

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厳しい下剋上の世を生きた戦国武将も、家に帰れば夫として、父親としての顔を持っていました。世襲や結婚に政治的な思惑が複雑に絡んでいた戦国時代、家族のために頑張って仕事をする現代の夫や父親とどのような違いがあったのでしょうか。戦国武将の家庭や夫婦関係、子どもの教育にまつわるエピソードを中心に、歴史の表舞台には出てこない武将達の家庭生活や内情にスポットを当てます。

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戦国武将の信仰

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日本には「八百万神」(やおよろずのかみ:多種多様な神)という言葉があるように、古代より多くの神と宗教が信仰されていました。戦国時代に信仰された宗教は、大きく「神道」(しんとう)、「仏教」、「キリスト教」、「修験道」(しゅげんどう)の4つ。神道は日本固有の宗教であり、仏教は朝鮮経由で中国から、キリスト教はポルトガルからそれぞれ伝来しました。修験道は、神道に様々な要素が組み合わさって日本で生まれたものです。それぞれの宗教の成り立ちと、戦国武将達がどのような宗教を信仰し、自身の生き方や政治活動に活かしていたかを紹介します。

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