戦国時代、身分の高い大名家に生まれた武将にとって、武芸の修得は必須とされました。なかでも重視されたのは「武芸四門」(ぶげいよんもん)と呼ばれるもので、「刀」(剣術)、「馬」(馬術)、「弓」(弓術)、「鉄砲」(砲術)の4つを指します。第一に修得すべきは馬術、第二に剣術、第三に弓術、第四に砲術と序列が決められ、これに「槍」(槍術)と「柔術」を加えて「六芸」(りくげい)とされることもありました。武将達は平時からこれらの武芸に励み、戦時に活躍できるよう戦闘能力を磨き上げていたのです。武芸四門及び六芸に数えられる武芸の内容と、それぞれにまつわるエピソードなどをご紹介します。
戦国時代の武将は、全員が馬に乗って戦う「騎馬武者」(きばむしゃ)だったわけではありません。軍馬を所有する騎馬武者には馬丁(ばてい:馬の世話をする職業)や槍持ちなどの従者が付くことが多く、彼らを雇うためには相応のコストがかかるのです。
そのため、戦国時代の騎馬武者は一定のステータスであり、足軽などの身分の低い武士は騎馬武者になることを目指して戦功を上げようとしのぎを削りました。
当時の馬術では、「小笠原流」(おがさわらりゅう:鎌倉時代より続く馬術や弓術の流派)を取り入れる武家が多かったと言われています。
小笠原流の馬術は、戦国武将が身に付けるべき作法や所作の基本が組み込まれていました。自分より身分の高い人物と対面した場合は下馬して拝礼する作法や、軍を率いる総大将として馬上でいかに指揮を執るか。そういった作法が細かく規定されていたため、身分の高い大名家に生まれた武将は、自分より身分の高い人物に対する接し方、配下に対して威厳を保つ所作などを馬術とともに学び、体得したのです。
剣術は「兵法」(へいほう:戦の仕方、戦闘の方法を学ぶ学問)に含まれることもあり、戦国時代においてはあらゆる武芸の基礎となるものでした。剣術の稽古では、昔も現代も変わらず木刀の素振りが行われますが、これは身体の基礎的鍛錬として効果的だからです。
また、木刀の組み打ち(接近戦や鍔迫り合いになった場合、相手を倒し組み伏せて首を取る戦法)により実戦での感覚がイメージできるため、戦に向かう精神を鍛える武芸として普及しました。日本刀は戦国武将のシンボルと言っても過言ではない武器です。ただし、戦時において日本刀が有効なのは主として接近戦であり、弓や槍に比べると使用頻度が低く、護身用の武器という意味合いが強かったようです。
室町幕府の13代将軍、足利義輝(あしかがよしてる)は、剣聖(けんせい:剣術に優れ、その道を極めた者)として名高い塚原卜伝(つかはらぼくでん)に師事し、教えを受けた弟子として知られています。1565年(永禄8年)、松永久通(まつながひさみち)らの急襲を受けた「永禄の変」では、二条御所にて薙刀を振り回し、最終的には日本刀で次々と敵を斬り倒す激戦を繰り広げましたが、一瞬の隙を突いた敵の槍に倒れて地面に伏せたところを大勢に襲いかかられ、命を落としました。
しかし、足利義輝が窮地に追い詰められてもなお戦い続けることができたのは、日頃から剣術を鍛錬し続けた成果に違いありません。
弓術の稽古には、弓矢などの道具の他、的場(まとば:的をかけ、弓や鉄砲を練習する場所)が必要であるため、弓術を学ぶことは馬術と同じく、身分の高い戦国武将のステータスシンボルでした。
弓術においても、当時の主流とされたのは小笠原流。的を矢で射抜くというスポーツ的な技能だけではなく、武芸としての所作の美しさが求められました。
矢を持ち、構えて放つまでの一連の動作では、背筋をピンと張る必要があるため、弓術に打ち込む武将は武芸を磨くと同時に姿勢なども矯正され、リーダーとして人前に立っても恥ずかしくない威風堂々とした態度が自然と育まれたと言われています。
伝統ある家系の大名家であれば、このような小笠原流の武芸や礼法を自ら少年期に身に付け、子弟に伝授しました。また、下剋上で成り上がった戦国大名であっても統治者としての威厳を持つため、小川原流の師範を家臣として雇い、馬術や弓術を礼法から学び直したと言われています。武芸と礼法は表裏一体、切っても切れない関係なのです。
鉄砲を有効に活用して戦国時代に名を上げた武将と言えば、織田信長を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。元服(げんぷく:戦国大名の家に生まれた男子の成人を祝う儀式)と初陣(ういじん:初めて戦に出陣すること)を済ませた織田信長は、武芸の師を自身の判断で選択しました。
弓術を市川大介(いちかわだいすけ)、剣術を平井三位(ひらいさんみ)、砲術を橋本一巴(はしもといっぱ)から学んだと言われています。馬術に関しては、礼法に重きを置いていた先述の小笠原流が自身の性格に合わないと判断したようです。実践を積み上げるなかで自然と上達すれば十分とみなし、あえて誰かに師事することはありませんでした。
このうち、砲術を橋本一巴から学んだのは、鉄砲が日本に伝来した1543年(天文12年)からわずか7年後のことと推定されており、織田信長がいかに時代を先取りする感性の持ち主だったかが分かります。
1554年(天文23年)の「村木砦の戦い」(むらきとりでのたたかい)ではいち早く鉄砲を実戦に導入。のちに明智光秀(あけちみつひで)や滝川一益(たきがわかずます)といった鉄砲の操作を熟知した家臣を積極的に雇い、織田鉄砲軍団を組成するなど、鉄砲を天下統一に向けた原動力としました。
ただし、当時の主流だった火縄銃は暴発の危険性が高く、十分な安全管理のもとで技術指導が行われました。そうなると弓術や馬術などの武芸よりも習得に向けたコストが高くなるため、砲術はあくまでも「選択科目」的な位置づけだったようです。
実戦では、日本刀よりも槍の方が武器として有効だったとされています。日本刀は先述のように敵に十分に接近しなければ斬り付けることができません。しかし、槍は敵との距離を保ちながら戦うことができ、頭部をめがけて振り下ろせば相手を脳震盪で失神させることができるため、日本刀を使うよりも容易に首を討ち取ることができたのです。
槍の柄は長ければ長いほど離れた位置から攻撃できるので、戦国時代後期になると長さ6mを超える長槍も登場しました。
騎馬隊に対して優位に戦えると言われたのが「槍襖」(やりぶすま)と呼ばれる戦法です。これは横一列に並んだ兵士達が槍を持ち、2人1組で槍の先端を交差させ、前方に隙間なく槍の先端を突き出しながら隊列を組む戦法で、騎馬隊はなす術もなく馬上から叩き落とされたと言われています。
戦国時代に確立した柔術は、柔道の起源とされていますが、その内容は現代の柔道とは異なるものでした。柔術の開祖とされているのは竹内久盛(たけうちひさもり)で、竹内流柔術を生み出しました。竹内流柔術は、戦場で敵と対峙した際に組み討ちし、首を取るための技でした。
そのため、武器を一切持たない現代の柔道とは異なり、鉄甲を付けた手で相手を殴り倒し、小刀を使って相手の急所を刺すなど、敵の息の根を止めるには手段を選ばないものだったのです。
ここまで紹介してきたように、いつ戦が始まるとも知れない戦国時代において、武芸を身に付けることは武将として当然のたしなみでした。時代の移り変わりとともに戦はなくなり、武芸の目的や内容は変化しましたが、根底に息づく礼儀や立ち振る舞いの大切さは現代まで受け継がれています。