情報伝達の手段が発展・多様化し、誰もが瞬時に情報を発信できる現代とは異なり、当然ながら戦国時代には電話やメール、インターネット、SNSなどはありませんでした。情報伝達の手段が未発達だった戦国時代において、戦国武将達はどのように情報のやり取りを行い、下剋上の世を生き抜いていたのでしょうか。当時の基本的な情報伝達手段を整理しながら、情報戦略の上で欠かせなかった書状のやり取りや、「忍者による諜報活動」、「調略活動」についても触れていきます。
情報伝達の手段として、戦国時代に最も一般的だったのが「書状」です。書状というのは、正確には戦国武将が私的に書いた文書を指しますが、近年の研究では公的な意味合いを持つ文書は「印判状」(いんばんじょう:現在の判子にあたる印判が押印された文書)、「判物」(はんもつ:家臣に対して所領の給付などを伝える文書)、「感状」(かんじょう:家臣に対して合戦での戦功を証明する文書)、「禁制」(きんせい:戦国大名が寺社や町に対して発給する文書)といったものを含めて書状と言われることが多くなっています。
戦国武将同士が交わした書状では、文末に「恐々謹言」(きょうきょうきんげん)といった文言が付けられるのが一般的で、これは「恐れながらも謹んで申し上げる」といった意味です。
当時は現代のような郵便制度が設けられていたわけではなく、その代わりに多くの領国で「伝馬制度」(でんませいど)が採用されていました。これは一定の区間ごとに宿駅(しゅくえき:宿駅と同義)を設け、リレー形式で馬を走らせて書状を届ける制度です。
書状を届けるために敵対関係にある領国を通過する必要がある場合は、敵に書状を奪われ情報が漏れてしまう危険性があるため、使者として選ばれた側近もしくは「飛脚」(ひきゃく:文書や金銭を輸送する専門職)が相手のところまで直接赴き、書状を手渡しすることもよくありました。書状に重要な機密事項はあえて記さず、口頭で伝えたのです。書状による情報伝達は、多くの情報を正確に伝えられるというメリットを持つ反面、敵に重要な情報を奪われかねないという危険性を常に併せ持つものでした。
敵の襲来などの緊急事態を伝える手段として使われたのが「狼煙」(のろし)です。「狼煙台」(のろしだい)と呼ばれるやぐらを設け、煙を上げることで、敵からの妨害を受けることなく情報を伝えることができます。遠く離れた場所からでもひと目で確認できますが、視認できる距離には限度があり、風の強い日や雨天の際には使えないというのがデメリットです。
そこで当時は、複数の狼煙台を等間隔に設け、リレー形式で煙を上げる狼煙網が整備されていました。
また煙は日中しか視認できないため、夜間には火を灯すことで情報を伝えたと言われています。
狼煙を活用した戦国武将としてよく知られているのは武田信玄(たけだしんげん)です。武田軍の軍法がいかに優れていたかを細かく記述した「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)と言う書物には、信濃(しなの:現在の長野県)、駿河(するが:現在の静岡県)、相模(さがみ:現在の神奈川県)の各方面から敵が国境を越えて侵入してきた際、整備の行き届いた狼煙網で武田信玄の居城まで迅速に情報が伝えられたことが記されています。
戦時における情報伝達には、「陣太鼓」(じんだいこ)、「陣鐘」(じんがね)、「拍子木」(ひょうしぎ)、「法螺貝」(ほらがい)といった「鳴り物」が用いられました。
いくら大軍を動員しても、指揮官の指示が伝わらなければその戦力を活かすことはできません。大軍を規律正しく動かすため、指揮官はこういった鳴り物を使って集合や散開、前進や後退といった伝令を行ったのです。
陣太鼓は、主に戦場で雑兵が背負い、太鼓役と呼ばれる身分の高い武士が決められた拍子を打ち鳴らしながら走り回ることで味方に伝令を送っていたと言われています。
陣鐘は陣太鼓よりも音が大きく、より遠方まで音を伝えるときに活用されました。拍子木は硬い木で作られた2本の四角い棒をカチカチと鳴らす物で、太鼓や鐘よりも音が小さいため、小規模な戦でしか使われなかったようです。
法螺貝はもともと修験道(しゅげんどう:山岳信仰や道教が組み合わさって生まれた宗教)の山伏(やまぶし:修験道の修行者)が宗教的な儀式などで用いたものでしたが、戦場では吹き方の違いで伝令を送り、軍の統制に使われました。
当初は山伏が戦場に徴用され、指揮官の伝令に従って吹いていましたが、やがて戦国武将が自分で吹くことが多くなり、法螺貝を持つことが一軍の大将としてのステイタスとみなされるようになったようです。
情報戦略のため、戦国武将達は普段から諸国に「間諜」(かんちょう)を派遣していました。間諜とは現在で言うスパイのことで、その代表的な存在が「忍者」です。
忍者と聞くと、現代人は頭からつま先まで黒で統一した「忍び装束」をイメージするかもしれませんが、日常的に忍び装束をまとって顔を隠していると、かえって目立ってしまいます。
そこで忍者達は、普段は変装をして人々の日常に紛れ込んでいました。虚無僧(こむそう:髪を剃らず諸国を行脚する修行僧)、僧侶、山伏、商人、放下師(ほうかし:大道芸人)、猿楽師、一般人の7つの姿に変装していたと言われており、忍者の変装姿はそれらを総称して「七放出」(しちほうで)と呼ばれています。
戦国大名に仕えた忍者集団としては、徳川氏の「伊賀衆」(いがしゅう:伊賀出身の服部半蔵が徳川氏の家臣であったことから、伊賀忍者が徳川氏に代々仕えるようになった)、毛利氏の「座頭衆」(ざとうしゅう:座頭と呼ばれる盲目の琵琶法師を介して集められた)、後北条氏の「風魔衆」(ふうましゅう:乱波とも呼ばれる無頼漢の忍者集団)などがよく知られ、時代劇や歴史小説の題材としてもたびたび取り上げられています。
下剋上の世とはいえ、戦国武将達も好んで戦をしていたわけではありません。できれば無駄な戦による消耗は避け、無血で敵に勝利し、有能な家臣を迎え入れ、領国を拡大したいと思っていました。そのために行われた様々な取り組みが「調略活動」(ちょうりゃくかつどう)です。
例えば、敵陣に内通者を作ることは「内応」(ないおう)と呼ばれています。織田信長が斎藤龍興(さいとうたつおき)の居城である稲葉山城(いなばやまじょう)を攻めるにあたって、斎藤龍興の家臣であった美濃三人衆(みのさんにんしゅう)、稲葉良通(いなばよしみち)・安藤守就(あんどうもりなり)・氏家直元(うじいえなおもと)が織田信長側の内通者となったことにより、斎藤龍興は孤立し、戦わずして城を捨てます。
また、敵側の何者かが裏切り行為をしている、こちらの内通者であるといった噂を故意に流して敵を疑心暗鬼に陥らせ、仲間割れを促す「離間の計」(りかんのけい)も調略活動として数えられます。
できるだけ人的・経済的な損失を避け、効率良く領国を運営していくため、戦国武将達は日常生活においても様々な調略活動を行い、戦国の世を生き抜こうとしていました。
このように、情報ツールが発達し、どこにいても気軽に連絡が取れる現代とは異なり、戦国時代における情報伝達はときに命がけでした。戦で勝利を掴むためには、武力だけでなく情報戦略も巧みに利用する必要があったのです。