茶の湯において、提供されるお茶は2種類あります。それは「濃茶」(こいちゃ)と「薄茶」(うすちゃ)。これに合わせて、茶入(抹茶の粉を入れる容器)も、「濃茶器」と「薄茶器」の2種類が用意されています。特に、濃茶器は、戦国武将「織田信長」が褒賞品として重んじた、とても格式が高い茶道具。茶入の歴史や種類について、詳しくご紹介します。
「茶入」(ちゃいれ)とは、抹茶の粉を入れておくための容器です。大きく「濃茶器」と「薄茶器」の2種類があります。「濃茶」とは、水分が少なくてドロリとしているのが特徴です。
ひとり分の抹茶の粉量が多く、点前では「練る」と表現されます。一碗の茶を複数の客が回し飲みして分かち合うのが作法で、千利休の時代のお茶と言えば、濃茶が主流でした。濃茶用の茶入は陶器で作られ、濃茶器と呼ばれます。
一方、「薄茶」とは、上品な泡が点てられたお茶のこと。ひとり分の抹茶の粉量が少なく、水分が多いお茶。点前では「点てる」と表現されます。1人に1碗、用意されるのが特徴です。また、濃茶と薄茶では、抹茶の茶葉自体が違うことをご存知でしょうか。
濃茶用の茶葉には、樹齢70~80年くらいの古木の若芽から採った葉を使用します。濃茶は濃く練るため、苦味や渋みの少ない古木の若芽を使用しているのです。一方、薄茶用の茶葉は、比較的若い茶葉が使用されています。
茶入が伝えられたのは、1191年(建久2年)。中国・宋で学んだ臨済宗の開祖「栄西」
(えいさい)が、茶入と茶の種を持ち帰ったのがはじまりと伝えられています。それが「柿漢蔕茶入」(かきのあやのへたちゃいれ)。現在は、高山寺(京都市右京区)に所蔵されています。
また、1222年(承久4年)に、中国・唐で学び、曹洞宗を開祖した「道元」(どうげん)が持ち帰ったのは「久我肩衡」(こがかたつき)。道元は加藤四郎左衛門景正と共に中国から土と釉薬を持ち帰り、これに似せた物を日本ではじめて瀬戸窯で焼き、和物(瀬戸焼)を作りました。
久我肩衡は、現在松浦家が所蔵しています。どちらも中国では、膏薬壺(こうやくつぼ:薬入)として使われていたとのこと。日本では、室町時代ごろから、茶入として使うようになり、特に素晴らしい茶入は名物と呼ばれ、珍重されました。安土桃山時代に突入すると茶人にとって、なくてはならない茶道具となったのです。
濃茶用の抹茶を入れておくための容器が、濃茶器です。陶器製で、象牙の蓋付であるのが一般的。当初蓋はなかったのですが、日本人が象牙の蓋を制作し、使うようになりました。さらに蓋の裏には、金箔貼りがされています。
これは、毒を見抜くため。抹茶の粉の中に毒が含まれている場合、金箔が曇る、または毒が消えると信じられていたのです。なお、濃茶器には、「仕覆」(しふく)を纏わせます。仕覆とは、金襴(きんらん)、緞子(どんす)、間道(かんどう)などの古裂(こぎれ)でできた袋のこと。保管する場合は、「挽家」(ひきや:木の器)に入れ、さらに箱に入れるほど、丁寧に扱います。
薄茶の抹茶を入れておくための容器が薄茶器です。総称は、「棗」(なつめ)。植物のナツメに形が似ていることにちなんで、名付けられています。棗がはじめて使用されたのは、1564年(永禄7年)。津田宗達は著書「天王寺茶記」に、この年の茶会で使用したと書いています。
つまり、棗は薄茶器ではなく、濃茶器としても使われていたということ。江戸時代までは、濃茶器、薄茶器の区別はなかったのです。
棗は、中次(なかつぎ)、吹雪(ふぶき)、寸切(ずんぎり)など種類が豊富。漆器で作られた物が多いですが、木地や象牙、竹でできた物など、様々です。
茶入は、作られた産地や形、格によって、様々に呼ばれ、区分されています。茶入の種類について、ご説明します。
中国で作られた茶入はあらゆる茶入の中でも最高位。宋から元の時代に制作されできが良い物は、特に「漢作唐物」(かんさくからもの)と呼ばれます。
土の色合いや釉薬の風合いなどが、高く評価。漢作唐物として有名なのは、久我肩衡や「豊臣秀吉」が所持したという「北野茄子」です。
日本国内で作られた茶入は、和物と言われます。1222年(承久4年)に道元と加藤四郎左衛門景正が、中国から土と釉薬を持ち帰り、瀬戸窯で焼いたのがはじめ。瀬戸で製造された茶入なので、「瀬戸焼」と言われています。
初期に作られた茶入は、中国からの唐物を真似した物が多かったのですが、江戸時代など時代が進むにつれて、日本独自の茶入の形式が生み出されました。なお、瀬戸以外で制作された茶入を「国焼茶入」と呼びます。
東南アジアで作られた茶入のこと。ベトナムで作られた陶器を「安南」(あなん)、フィリピンで作られた陶器を「呂宋」(るそん)、東南アジア系統の陶器は「南蛮」と呼びました。
また、タイで作られた漆器を「独楽」(こま)と言います。格は高くはないものの、奇異で、独特の雰囲気が珍重されました。
茄子(なす)とは、まるで野菜の茄子のように、口元がすぼんで下膨れとなった愛らしい茶入のこと。茶入の中で、最も格式が高く、漆塗りの長盆に載せて使うことが作法となっています。「九十九髪茄子」(つくもなす)、「松本茄子」、「富士茄子」は、「天下三茄子」と呼ばれる最上品。
特に九十九髪茄子は、戦国武将「松永久秀」が「織田信長」に献上して、お気に入りとなったことで有名です。「大坂夏の陣」の際に焼身となりましたが修復され、現在は静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区)に所蔵されています。
文琳(ぶんりん)とは、果物のリンゴのように、小ぶりで丸型の茶入のこと。中国で「文琳郎」という官人が、国主に林檎を献上したことから、リンゴを文琳と呼ぶようになりました。
大名物「本能寺文琳」は、戦国大名「朝倉義景」が所持。織田信長へと渡り、本能寺に寄進されたと言われる名品です。南宋時代に作られた唐物で、重要美術品に指定。現在は五島美術館(東京都世田谷区)が所蔵しています。
肩衝(かたつき)とは、茶入の上部が横に飛び出している茶入で、茄子と比較して力強い見た目となっているのが特徴です。現代において作り出されている茶入は、この形状が多いと言えます。
「新田肩衡」(にったかたつき)、「初花肩衡」(はつはなかたつき)、「楢柴肩衝」(ならしばかたつき)は、「天下三肩衝」と称され、賞賛されています。新田肩衡は、肩に少し丸みが見られるのが特徴。現在は徳川ミュージアムに所蔵されています。
大名物、名物、中興名物という格付けは、江戸時代の松江藩主「松平不味」がまとめた「雲州名物帳」と「古今名物類聚」に基づいています。
大名物とは、千利休の時代以前に有名だった名品。例えば、天下三肩衝の「楢柴肩衝」、「新田肩衝」、「初花肩衝」。「曜変天目茶碗」などが挙げられます。
名物とは、千利休の時代に存在した名品のこと。名物として有名なのは、千利休が所持していた「利休小茄子」などがあります。
中興名物とは、遠州流茶道の祖「小堀遠州」によって選ばれた物と言われています。有名なのは、「唐物文琳茶入」、「小井戸茶碗 銘六地蔵」などです。
茶入を鑑賞する際は、「ナリ」(形)を観ることが大切と言われます。ナリ(形)を観る際に注目したいのは、口、肩、胴、腰、糸切(底)の5ヵ所。
口は、口の縁の部分が捻り返しているかどうか、肩はきりっとしているのか、丸みがあって優しい印象なのか、胴や腰には釉薬がどう流れている状態なのか、糸切(底)は、左回りなのか右回りなのか。形を良く観たら、釉薬の付き方や触った感じなど、細かく確認すると良いでしょう。
茶入は、茶道具の中でも茶碗に次いで重要で、小さい器だからといって侮ることはできません。
中国から伝来した唐物茶入のなかでも、古い時代に作られた入れ物が重用されていますが、国焼の中でも人気の高い茶入があります。お茶を嗜む際には、ぜひ茶入にも注目してみてはいかがでしょうか。