「南蛮胴具足」(なんばんどうぐそく)とは、戦国時代以降主流となった当世具足(とうせいぐそく)の一種で、西洋の甲冑(鎧兜)に用いられている胴鎧を用いた甲冑のこと。西洋の甲冑は高価で、南蛮貿易を通じてのみしか手に入らなかったことや、鉄砲の弾を通さないほど頑強な造りをしていたことから、武将達に重用されました。南蛮胴具足の特徴や、刀剣ワールドが所蔵する南蛮胴具足を紹介します。
「南蛮胴具足」とは、当世具足の一種で、南蛮貿易によってもたらされた西洋甲冑の胴鎧や兜を、日本式の甲冑に流用した甲冑のことを言います。
戦国武将達は、西洋甲冑の胴鎧や兜鉢(かぶとばち)に日本製の草摺(くさずり)や「錣」(しころ)をそれぞれ取り付け、当世具足の形式に落とし込みました。
西洋の甲冑がそのまま用いられなかった理由に、西洋の甲冑は各人の体形に合わせて制作されたオーダーメイドだったため、そのまま着用すると動きにくいという難点が挙げられます。日本は山岳地帯が多く、急斜面などででこぼこした地形をしていたため、戦術の関係においても、動きを制限する西洋甲冑は不向きだったのです。
南蛮胴は鉄板を打ち出して制作されており、前胴と後胴をつなぎ合わせた二枚胴の形式をしています。前胴の中心には、「鎬筋」(しのぎすじ)と呼ばれる稜線が走っており、その下端が尖ったような形状をしているのが特徴です。
南蛮胴は大きく、重く、高価であったため、やがて日本でも南蛮胴を模して「和製南蛮胴」が制作されるようになります。舶来品の南蛮胴とは違い、和製南蛮胴は正面の下端が尖らず平たくなっているのが特徴です。
西洋で制作された南蛮胴は、日本で制作された甲冑よりも重厚であったことから、鉄砲による攻撃に強く、多くの武将達に珍重されていました。
はじめて日本に南蛮胴がもたらされたという記録が、1588年(天正16年)のこと。ポルトガル領インド総督による外交文書とともに、「豊臣秀吉」へ贈呈されたのが資料として残っている最初の記録です。
現代では、映画やドラマ、ゲームなどの影響で、「織田信長」や「上杉謙信」が南蛮胴具足を着用していたというイメージが強くありますが、伝来したというはじめの記録は2人の死後の物。当時の南蛮貿易の商船には武具が積み込まれていたことから、貿易の際に入手していた可能性もありますが、2人が南蛮胴具足を着用していたという確かな記録は残されていないのです。
一方で、南蛮胴具足を愛用した武将に、江戸幕府初代将軍「徳川家康」がいます。徳川家康所用の最も有名な甲冑が、「日光東照宮」(栃木県日光市)が所蔵している「南蛮胴具足」です。この南蛮胴具足も、西洋甲冑の胴鎧を流用し、日本で制作した小具足と合わせた、典型的な南蛮胴具足の形式を表しています。
「刀剣ワールド」が所蔵する「鉄錆地縦矧五枚胴胸取具足」(てつさびじたてはぎごまいどうむなとりぐそく)は、江戸時代中期に制作された、南蛮胴風の当世具足です。
甲斐源氏武田の一族・小笠原家に伝来した甲冑で、本甲冑の据紋金物や袖などに、小笠原家の家紋である「三階菱」があしらわれています。
胴は、室町時代から江戸時代に隆盛した有名な甲冑師の一派「明珍派」の手による物で、兜は、戦国時代の甲冑師「義通」(よしみち)により制作されました。
兜の前立(まえたて)には、「八」の字が鳥を象った「八幡大菩薩」の文字があしらわれており、眉庇(まびさし)には龍の文様が打出しで装飾されています。「打出し」とは、鉄板を裏側から打ち、表面に文様を浮かび上がらせる金工技術のことで、明珍派が得意としました。
また、八幡大菩薩は、日本全国の武士から崇敬を集めた武神。前立の八の字が鳥を象っているのは、八幡大菩薩の使いが白鳩だからという理由があります。
「鉄錆地和製南蛮五枚胴具足」(てつさびじわせいなんばんごまいどうぐそく)は、江戸時代の旗本・金田家に伝来した和製南蛮胴具足で、現在は刀剣ワールドが所蔵する、「特別貴重資料」に認定された甲冑です。
据紋金物には金田家の家紋「三ツ輪違い」があしらわれています。江戸時代中期頃に制作されたと観ぜられ、兜は著名な甲冑師の一派「早乙女派」の甲冑師「早乙女家親」(さおとめいえちか)の在銘作。
六十二間筋兜の裏側の前部に「早乙女鋲」と呼ばれる鋲が打ち込まれた、早乙女派の作風を典型的に表している一刎です。前立には、「俊敏で後退しない」という習性にあやかり、ウサギがあしらわれています。
本甲冑の南蛮胴は鉄製の五枚胴となっており、和製南蛮胴らしく、下端が平らに制作されました。また、中心には忠誠を尽くし、国から受けた恩に報いるという意味の「尽忠報国」という四字熟語が配置されています。