キリスト教の普及~迫害

フランシスコ・ザビエルとイエズス会
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フランシスコ・ザビエルとイエズス会 フランシスコ・ザビエルとイエズス会
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1549年(天文18年)に来日したフランシスコ・ザビエルは、その後2年に亘って日本各地(おもに西日本)で積極的にキリスト教の布教活動を行いました。来日前後には、インドや東南アジアでも数多くの人々に洗礼(せんれい:キリスト教の信者になること)を授けています。フランシスコ・ザビエルの日本での布教活動や彼が日本に残したものについて見ていきましょう。

鹿児島と長崎で宣教活動を開始

薩摩国(現在の鹿児島県)の守護大名である島津貴久(しまづたかひさ)に謁見し、布教の許可を得たフランシスコ・ザビエルは、その後しばらく薩摩国に留まって布教活動を行うとともに、仏僧と宗教について意見交換もしていたと言われています。

イエズス会とフランシスコ・ザビエルは、日本にキリスト教を布教するにあたり、天皇に正式な許可を得ることが必須だと考えていました。そのため、1年を待たずしてフランシスコ・ザビエルは薩摩国を発ち、京都へ向かう道中、各地で布教活動を行うことにしたのです。

1550年(天文19年)8月、フランシスコ・ザビエルは肥後国平戸(現在の長崎県平戸市)に入りました。彼は2年の日本滞在期間中、3度平戸を訪れています。

1度目はすぐに鹿児島に引き返していますが、翌月に2度目の来訪を果たして2ヵ月あまり滞在。3度目は京都への旅から戻る道中の1551年(天文20年)3月で、このときも1ヵ月ほど滞在したようです。当時フランシスコ・ザビエルがイエズス会の仲間にあてた手紙によると、平戸では領主の松浦隆信(まつうらたかのぶ)に好意的に迎えられ、100人ほどの人々に洗礼を授けたことが書き記されています。

そのため平戸には、現在もフランシスコ・ザビエルゆかりの史跡や教会が多数残っており、彼の与えた影響の大きさをうかがい知ることができます。

天皇との謁見が叶わず、長崎と山口へ

1551年(天文20年)1月、フランシスコ・ザビエルは京都に到着します。そして当時の最高権力者である後奈良天皇(ごならてんのう)と、征夷大将軍の足利義輝(あしかがよしてる)から正式な布教の許可を得るために謁見を求めましたが、それは叶いませんでした。

一説には、献上の品を用意していなかったためと言われています。実際には来日時、天皇に謁見できたときのために13種の高価な贈り物を用意していたのですが、京都へ向かう際にそれらを平戸に置いてきてしまったのです。

また、当時の京都は「応仁の乱」(おうにんのらん)や「天文法華の乱」(てんもんほっけのらん)といった戦乱が続き、疫病や飢饉、天災などにたびたび見舞われたこともあって荒廃しきっており、天皇の権力も低下していました。

大内義隆

大内義隆

そのため京都にはわずか11日しか滞在せず平戸に戻り、天皇に献上するはずだった品々を携えると、フランシスコ・ザビエルは周防国(現在の山口県)の守護大名である大内義隆(おおうちよしたか)のもとへ向かいます。

実は大内義隆には京都へ向かう往路でも面会していたのですが、その際は日本の習慣にフランシスコ・ザビエルが苦言を呈したことから怒りを買い、交渉はうまくいかなかったのです。そこで「今回こそは」と、フランシスコ・ザビエルは大内義隆に献上品をわたしました。すると予想通り、大内義隆はその品々を大いに喜び、山口での布教を許可。古い寺を教会兼住居として提供し、フランシスコ・ザビエルは2ヵ月で500人近くの信者を得ました。

日本を離れ、中国での布教を開始する目前に亡くなる

フランシスコ・ザビエルが、日本で最後に滞在したのが豊後国府内(現在の大分県大分市)です。この地で彼は守護大名である大友宗麟(おおともそうりん)の保護を受け、2ヵ月ほど布教活動を行いました。

大友宗麟と言えばキリシタン大名として有名ですが、この頃はまだ大友義鎮(おおともよししげ)という名で、洗礼も受けていませんでした。彼が洗礼を受けてキリシタンになるのは、1579年(天正7年)のことです。

フランシスコ・ザビエルが2年の布教期間を経て日本を離れたのは、1551年(天文20年)の11月。インドのイエズス会員から布教活動の進捗を伝える手紙が届かないことを気にして、再びインドへ戻ったのです。

翌年の1552年(天文21年)4月、今度は中国で布教を行うためにインドのコーチンを発ち、同年9月に広東省の上川島(じょうせんとう)に到着。しかし、中国への入国の機会を待っていた同年12月3日、熱病でこの世を去りました。まだ46歳という若さでした。

フランシスコ・ザビエルの継承者達

フランシスコ・ザビエルが日本を離れたあとも、イエズス会からは多くの宣教師達が来日しました。なかでもよく知られているのが、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスです。

1563年(永禄6年)に来日し、1569年(永禄12年)に織田信長より布教の許可を得ています。しかし、ルイス・フロイスと言えば、何よりもまず彼が編纂(へんさん)した「日本史」が有名です。日本の教会史だけでなく、織田信長や豊臣秀吉といった当時の権力者達の姿を、生き生きと描写しているからです。

また1582年(天正10年)には、4人の少年が長崎の港から南蛮船に乗り、ローマへ旅立ちました。伊東マンショ(いとうまんしょ)、千々石ミゲル(ちぢわみげる)、中浦ジュリアン(なかうらじゅりあん)、原マルチノ(はらまるちの)の4人からなる彼らの名は「天正遣欧少年使節」(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)。

当時来日していたイエズス会のイタリア人宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案で集められ、先の大友宗麟らの名代として派遣されました。ローマ教皇やスペイン国王に謁見し、各地で熱狂的な歓迎を受けた彼らは、出発当時はまだ13歳前後でした。8年5ヵ月後に長崎に戻るまで、現地でのキリスト教とそれを取り巻く人々や文化を広く吸収したのです。

フランシスコ・ザビエルらが設立したイエズス会とは?

イエズス会の紋章

イエズス会の紋章

ところで、フランシスコ・ザビエルが創立者のひとりとして名を連ねるイエズス会とはどんな組織なのでしょう? イエズス会は1534年、スペイン北東部のナバラ王国出身のバスク人、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の6名の同志によって創立された男子修道会です。

現在も約20,000人の会員が在籍し、カトリックの男子修道会としては最も大きな組織のひとつとなっています。ちなみに、2019年(令和元年)11月に来日した第266代ローマ教皇フランシスコ(アルゼンチン出身)は、初のイエズス会出身のローマ教皇です。

イエズス会は、創立当初から世界各地での布教を重視し、インドなどへ向けて優秀な宣教師達を積極的に派遣しました。フランシスコ・ザビエルはそのなかでも最も有名な宣教師のひとりであり、1541年にインドのゴアに到着。インド中で多くの人々に洗礼を授けました。

その後、1549年(天文18年)、マラッカのヤジローとの出会いからフランシスコ・ザビエルが来日して以来、日本でのキリスト教の布教は40年以上にも亘ってイエズス会が独占していたのです。

そして1585年(天正13年)、ローマ教皇グレゴリウス13世(イタリア出身)が日本での布教をイエズス会のみに許可し、他の修道会による布教を正式に禁じます。しかし、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令したため、イエズス会は表立った活動を控えるようになりました。

その間にフィリピン使節として来日したスペイン系修道会「フランシスコ会」のイタリア人宣教師であるペドロ・バプチスタらが、禁教下であるにもかかわらず公然と布教したことなどの様々な要因が重なり、豊臣秀吉はスペインが日本を占領しようとしていると激怒。ペドロ・バプチスタらフランシスコ会の宣教師やキリシタンを捕縛し、1597年(慶長2年)、見せしめのために京都から長崎までの道中を引き回した末、長崎で全員を十字架にかけて処刑しました。

これは「日本二十六聖人の殉教」(にほんにじゅうろくせいじんのじゅんきょう)と呼ばれ、以降、キリシタンは長く迫害され、困難な時代を過ごすことになります。

フランシスコ・ザビエルと...
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キリスト教の伝来

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キリスト教が日本に伝来したのは、1549年(天文18年)、スペインの宣教師「フランシスコ・ザビエル」が鹿児島に到着した頃からです。日本にキリスト教が伝来するまでの世界の動き、来日するまでのフランシスコ・ザビエルの動き、はじめて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはどんな人物だったのかなどについて、大きな流れをご紹介していきます。

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キリスト教と南蛮貿易

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1543年(天文12年)に大隅国種子島(おおすみのくにたねがしま:現在の鹿児島県種子島)に到着したポルトガル人、1584年(天正12年)に肥前国平戸(ひぜんのくにひらど:現在の長崎県平戸市)に到着したスペイン人らを、当時の日本人は「南蛮人」(なんばんじん)と呼んでいました。もとは中国人が南方(南ヨーロッパ)からやって来る異民族をそう呼んだことが始まりで、日本でもポルトガル人との貿易が始まった頃から使われるようになりました。そして、南蛮人と日本人の間で行われた貿易が「南蛮貿易」(なんばんぼうえき)です。日本でのキリスト教の布教とも深く関連している南蛮貿易と、それによって日本国内にもたらされた「南蛮文化」(なんばんぶんか)について見ていきましょう。 南蛮貿易安土桃山時代の重要用語「南蛮貿易」ついてわかりやすく解説します

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キリスト教の迫害

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豊臣秀吉が1587年(天正15年)に「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令した頃から、日本でのキリスト教の布教は制限され、外国人宣教師や洗礼を受けてキリシタンとなった日本人達への弾圧が次第に目立つようになりました。ただし、発令された当初の伴天連追放令は「禁教奨商」(きんきょうしょうしょう:キリスト教は禁止するが貿易は奨励する)を基本的な方針としており、ポルトガルとの南蛮貿易(なんばんぼうえき)において、必ずしも大きな効力を発揮するものではありませんでした。フランシスコ・ザビエルの所属するイエズス会がキリスト教の布教と貿易を一体化する方針を固めていたため、南蛮貿易によって大きな利益を手にするためにはキリスト教の布教も黙認せざるを得なかったのです。

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