1543年(天文12年)に大隅国種子島(おおすみのくにたねがしま:現在の鹿児島県種子島)に到着したポルトガル人、1584年(天正12年)に肥前国平戸(ひぜんのくにひらど:現在の長崎県平戸市)に到着したスペイン人らを、当時の日本人は「南蛮人」(なんばんじん)と呼んでいました。もとは中国人が南方(南ヨーロッパ)からやって来る異民族をそう呼んだことが始まりで、日本でもポルトガル人との貿易が始まった頃から使われるようになりました。そして、南蛮人と日本人の間で行われた貿易が「南蛮貿易」(なんばんぼうえき)です。日本でのキリスト教の布教とも深く関連している南蛮貿易と、それによって日本国内にもたらされた「南蛮文化」(なんばんぶんか)について見ていきましょう。
南蛮貿易は、日本と中国の間で行われていた日中貿易に、ポルトガルが仲介として入る形で始まりました。
当時、東アジアへの関心を高めていたポルトガルは、インドネシアのモルッカ諸島を拠点とする香辛料貿易(こうしんりょうぼうえき:ポルトガルはモルッカ諸島で生産されたコショウなどをヨーロッパ諸国や中国に輸出し、大航海時代の海上の交易体制をリードしていた)が衰退した分の損失を補うため、マカオを拠点として日中貿易の仲介に力を入れるようになったのです。
貿易港は九州が中心で、平戸と長崎、豊後国府内(ぶんごのくにふない:現在の大分県大分市)などに南蛮船が渡来するようになりました。南蛮船と呼ばれたポルトガルの船は中国にポルトガル製の毛織物などを輸出し、日本には中国産の生糸や絹を輸出。そして日本では銀などを入手し、それを中国や自国に輸入しました。
日本は戦国時代より各地の領主の奨励により銀が大量に産出されるようになり、ポルトガル人はそれが商売として大きな利益を生むと考えたのです。また、ポルトガルは日本から銀だけでなく、海産物や刀剣、漆器などの工芸品も輸入しました。
一方の日本は、ポルトガルから中国産の生糸や絹だけでなく、ポルトガル製の鉄砲や火薬、それにガラスの器や織物なども輸入しました。こうして日本に伝えられた様々な文化が、南蛮文化という戦国時代の文化を語る際に欠かせない一要素となっていきます。
1549年(天文18年)にフランシスコ・ザビエルが薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)に上陸してキリスト教が伝来すると、南蛮文化はキリスト教とともに広く日本中に普及していきました。
というのも、フランシスコ・ザビエルの所属するイエズス会は、キリスト教の布教と貿易を一体化する方針を定めており、各地の領主が布教を認めた場合に限り、南蛮船が領内に寄港するようにしたのです。多くの領主にとって、南蛮貿易は大きな利益を得るための商機であったため、キリスト教の布教を認めないわけにはいきませんでした。
そういった経緯からキリスト教に関心を寄せ、洗礼(せんれい:キリスト教の信者になること)を受けるに至った「キリシタン大名」も少なからず生まれました。1563年(永禄6年)に洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となった肥前国の大村純忠(おおむらすみただ)をはじめ、大村純忠の甥の有馬晴信(ありまはるのぶ)、豊後国の大友宗麟(おおともそうりん)らが代表的です。
イエズス会はキリスト教の布教に留まらず、医療・教育・美術の分野で様々なヨーロッパ文化を日本に紹介しました。まず、医療では病院・孤児院を設立。貧しい人々には無料で治療を施しました。
教育では現在の中学校にあたる「セミナリオ」を有馬と安土に、大学にあたる「コレジオ」を長崎に設立。セミナリオでは哲学・神学・歴史・数学・音楽・美術などの授業を、コレジオでは聖職者の養成を目的とした神学とラテン語などの授業を行いました。
教育に関連して、亜鉛活字を用いた印刷技術ももたらされ、キリスト教の教えを説いた教義書の他、ローマ字で記述された「平家物語」や「イソップ物語」、日本語・ポルトガル語辞典の「日葡辞書」(にっぽじしょ)などが印刷されました。
美術においても多くの足跡を残しており、セミナリオやコレジオはヨーロッパの洋風建築を模して造られました。イエズス会のもたらした南蛮風建築物としては現在の教会にあたる「天主堂」(てんしゅどう)が有名です。
なかでも、1576年(天正4年)に京都に建てられた「南蛮寺」(なんばんでら)は広く知られており、木造瓦葺・3階建ての当時としては立派な建物だったと言われています。建築だけでなく、絵画においても西洋の油絵や銅版画といった手法が紹介され、キリスト教の聖人を描いた聖画(せいが:宗教画のこと)や南蛮船が入港する様子を描いた「南蛮屏風」(なんばんびょうぶ)が多く残されています。
南蛮貿易が定着し、宣教師達によるキリスト教の布教が活発になると、武士は「ジュバン」(gibao)と呼ばれるボタン掛けのシャツを甲冑下の肌着として着用した他、西洋の鎧をカスタマイズした「南蛮胴」(なんばんどう)を考案。
庶民のなかにも「マント」(manto)やのちのモンペに通じる「カルサン」(calção)を身に着け、南蛮由来の「コンペイトウ」(a confeitos)や「カステラ」(pão de castella)といった食物を口にする人々が増えてきました。地球儀や時計、メガネ、ガラスなど、当時の日本にはなかった様々な日用品も次第に使われるようになり、日本は空前の南蛮ブームを迎えます。
ここで、ポルトガル語・オランダ語・スペイン語を語源とし、のちに日本語として定着した外国語をいくつか紹介しておきましょう。いまや当たり前のように日本語として使っている言葉、英語が語源と思っていた言葉なども多く含まれているのではないでしょうか。
南蛮文化と同時に、キリスト教もめざましい勢いで日本人に根づいていきました。洗礼を受けて信者になったキリシタンは、1582年(天正10年)頃には約150,000人に達したと言われています。当時の政権を担った織田信長によって保護されたキリスト教と南蛮文化は、その後の豊臣秀吉政権においても当初は継続的に容認されました。
しかし、その勢いに危機感を覚えた豊臣秀吉は、1587年(天正15年)にキリスト教の宣教と南蛮貿易を制限する「バテレン追放令」を発令。以降、日本では長くキリスト教が迫害されることになります。