「大村純忠」(おおむらすみただ)は、日本で最初のキリシタン大名です。横瀬浦(よこせうら:現在の長崎県西海市)、福田(現在の長崎県長崎市)、長崎(現在の長崎県長崎市)を開港し、キリシタン文化を繁栄させましたが、その一方で近隣の領主や身内からたびたび攻撃を受けるなど、波乱に満ちた一生を送りました。なぜ大村純忠はキリシタン大名になったのか、なぜ次々と領地を開港していったのか、なぜ近隣との争いが絶えなかったか、といった謎に迫りながら55年の生涯を振り返ります。
「大村純忠」(おおむらすみただ)は、1533年(天文2年)、肥前国高来(ひぜんのくにたかき:現在の長崎県島原市周辺)を拠点とする有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれ、5歳で同じ肥前国の領主である大村純前(おおむらすみさき)の養子となりました。
大村純前には又八郎(またはちろう)という実子がいましたが、それにもかかわらず大村純前は有馬氏からの養子を受け入れ、実子の又八郎を肥前国武雄(ひぜんのくにたけお:現在の佐賀県武雄市)の後藤氏に養子として出しました。これには理由が2つあると言われています。
ひとつは有馬氏による政治的な画策とする説。当時の有馬氏が肥前国の11郡のうち高来・藤津(ふじつ)・杵島(きしま)・小城(おぎ)の4郡を領土としていたのに対して、大村氏は大村湾周辺の15の村を領する程度。両家の勢力には大きな差があり、有馬氏が大村氏に対してより強い影響力を及ぼすために養子縁組を行ったというものです。
もうひとつは、又八郎の出生を問題視したとする説。又八郎の実母は、有馬氏と大村氏が対立関係にあった1474年(文明6年)、「中岳合戦」(なかたけかっせん)で有馬軍に寝返り、大村軍の大敗の原因を作った鈴田道意(すずたどうい)という武将の娘でした。この娘が大村純前の側室となり、生まれたのが又八郎です。
謀反者の娘が産んだ子が大村の家督を継ぐことに、多くの異論が出たのは想像に難くありません。以上の2つの理由が絡み合い、大村純忠は1550年(天文19年)に17歳の若さで大村家を相続することになりました。
そして後藤家を相続した又八郎はのちに後藤貴明(ごとうたかあきら)と名を改め、自らの悲運の根源は大村純忠にあるとして、執拗に大村純忠を攻撃するようになります。
1550年(天文19年)に初めてポルトガル船が来航して以来、肥後国平戸(ひごのくにひらど:現在の長崎県平戸市)は南蛮貿易とイエズス会によるキリスト教布教の重要拠点となっていました。
しかし宣教師による神社や寺院の破壊が行われるようになると、平戸領主の松浦隆信(まつうらたかのぶ)はキリスト教への不信感を高め、宣教師を領地から退去させました。
平戸とイエズス会の関係性が悪化していくなかで、1561年(永禄4年)に日本人商人とポルトガル人商人の間で争いが起き、ポルトガル人14名が殺傷される「宮ノ前事件」(みやのまえじけん)へと発展。肥後国平戸を退去したイエズス会は1562年(永禄5年)に大村純忠と開港協定を結び、横瀬浦に拠点を移します。
大村純忠が横瀬浦の開港を認めた理由は、南蛮貿易の誘致にありました。周りを敵対する大名領に囲まれている小さな大村領にとっては、貿易によってもたらされる莫大な利益は財政、特に軍事力の強化のために欠かせなかったのです。しかしイエズス会は、当時からキリスト教の布教と貿易を一体化する方針を固めていたため、大村純忠は貿易による免税、キリスト教布教の自由、教会建設などの特権を含むイエズス会との開港協定に同意。そしてその翌年の1563年(永禄6年)、大村純忠は家臣とともにイエズス会宣教師のコスメ・デ・トーレスから洗礼を受け、ドン・パルトロメオという洗礼名が授けられました。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスが記した「日本史」によると、大村純忠は家臣達とともにひざまずき、家臣の誰よりも謙虚の気持ちを示し、両手を高く挙げて十字架を崇めたと言います。また、洗礼を受けたのちの大村純忠は、鎧の上にいつも陣羽織を着用しており、その陣羽織には「JESUS」(イエズス:イエス・キリストの意)と「INRI」(イエス・キリストの十字架の上に掲げられたラテン語の頭文字。ユダヤ人の王、ナザレのイエスの意)という文字が描かれ、出陣の際には十字架の描かれた旗をなびかせていたそうです。
開港後の横瀬浦は、協定に則って宣教師による布教が行われるとともに教会も建造され、町は多くの商人で賑わいました。しかしこれを面白く思わなかったのが、後藤貴明です。大村純忠が洗礼を受けて間もない時期に、後藤貴明は大村領内で大村純忠に反感を持つ老臣と手を結んで大村純忠を襲撃。
その影響で横瀬浦にも混乱が生じ、略奪行為に加えて放火が起こりました。これにより港の主要な建物がすべて燃えてしまい、横瀬浦は貿易港として機能しなくなってしまったのです。横瀬浦が焼き討ちされたのち、大村純忠は1565年(永禄8年)に港を福田に移しました。
しかし、福田の開港に激怒したのが平戸領主の松浦隆信です。松浦隆信は先述のような理由でキリスト教への不信感が高まっており、彼らの進出を恐れて大型船8隻と小舟70隻を率いてポルトガル船を攻撃。この海戦では結果的にポルトガル船が勝利したものの、外海に面した福田は波風が強く、貿易港には適さないとして、5年後の1570年(元亀元年)に大村純忠は港を長崎に移しました。
横瀬浦と福田での襲撃で警戒心を強めたのか、大村純忠は当初、開港協定を再び結ぶことに消極的になっていたと言われていますが、最終的には義兄の有馬義貞(ありまよしさだ)に説得される形で開港を認めています。
開港され、毎年多くのポルトガル船が寄港するようになると、長崎は人口が増え、急速に繁栄していきました。しかし周囲の領主との対立は絶えず、1573年(天正元年)には近隣の西郷純堯(さいごうすみたか)や深堀純賢(ふかほりすみかた)が大村領を攻撃。
さらに西郷純堯は同年、大村純忠の義兄である有馬義貞と手を組み、大村純忠の暗殺計画を企てましたが、有馬義貞はそれに協力せず、大村純忠本人に真実を伝えたため、計画は失敗に終わっています。しかしそのあとも龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)からの圧力や、有馬氏による口之津(くちのつ:現在の長崎県南島原市)への南蛮船誘致計画などが立て続けに起こり、大村純忠を悩ませました。
こうした状況のなかで、大村純忠は1580年(天正8年)、イエズス会に長崎を寄進することを決めます。その内容は、長崎港に関する関税と入港税は大村領が保有しつつ、長崎の統治権と司法権はイエズス会に委ねられるというもの。町を統治・管理する責任者もイエズス会が選任でき、南蛮船の停泊料もイエズス会に支払われました。
もちろん長崎の寄進はイエズス会に取ってのみ都合の良いものではなく、周囲を敵に囲まれた大村純忠にとっても都合の良いものでした。長崎の町をイエズス会、つまりポルトガル人に寄進すれば、周りの領主はそこに攻め入り、ポルトガル全体を敵に回すようなことはしない。つまり、自身の領を守ることになると考えたのです。
晩年の大村純忠は隠居し、咽頭がんと肺結核を患いながらもキリシタンとして宣教師達と語らう静かな日々を過ごしたと言われています。宣教師のひとりは、「ドン・パルトロメオ[大村純忠の洗礼名]は、どんな苦境に立たされても信仰を棄てることがなかった」と書き残しており、その信仰心の強さがうかがえます。
1587年(天正15年)、息子の大村喜前(おおむらよしあき)にキリスト教のさらなる布教を託し、大村純忠は55歳で息を引き取ります。しかしその死のわずか1ヵ月後、豊臣秀吉が「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令。長崎は豊臣秀吉に収公(しゅうこう:領地などを政府が没収すること)されるとともに日本でのキリスト教の布教は制限され、外国人宣教師やキリシタンへの弾圧が次第に高まっていくことになります。