「高山右近」(たかやまうこん)は、最もよく知られるキリシタン大名のひとりです。大和国宇陀(やまとのくにうだ:現在の奈良県宇陀市)の沢城主(さわじょうしゅ)である高山友照(たかやまともてる)の長男として生まれ、12歳にしてキリスト教の洗礼を受けています。のちに高山家の当主となった高山右近は織田信長や豊臣秀吉に従属し、豊臣政権下では播磨国明石(はりまのくにあかし:現在の兵庫県明石市周辺)に6万石の領地が与えられました。領内ではセミナリオ(神学校)を開設するなどしてキリスト教の布教を保護しましたが、豊臣秀吉による「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)の発令で棄教を迫られるも拒否したため、領地と財産のすべてを失います。そして晩年にはマニラに追放され、再び日本に戻ることなく熱病でこの世を去りました。キリスト教に一生を捧げた高山右近の、波乱に満ちた63年の生涯を振り返ります。
「高山右近」(たかやまうこん)の生涯を追うにあたっては、まず父である高山友照(たかやまともてる)の足跡を辿る必要があります。
高山友照は「高山飛騨守」(たかやまひだのかみ)の名で知られる摂津国島下(せっつのくにしましも:現在の大阪府高槻市周辺)高山村の出身。
1560年(永禄3年)、摂津国の守護大名・三好長慶(みよしながよし)の重臣である松永久秀(まつながひさひで)が大和国へ侵攻した際の積極的な協力が三好長慶に評価され、大和国宇陀の沢城主となりました。
高山右近が12歳の若さでキリスト教の洗礼を受けたのは、父の高山友照がキリシタンだったからです。高山友照は1563年(永禄6年)、キリスト教の教えに感銘を受け、沢城にて宣教師のガスパル・ヴィレラから受洗(じゅせん:キリスト教の洗礼を受けること)。畿内(京都近くの山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヵ国を指す)で最も早い時期に受洗したキリシタンのひとりとなりました。その翌年には息子の高山右近ら親族と家臣を入信へ導いています。
洗礼名は、高山友照がダリオ、その妻(高山右近の母)はマリア、高山右近はユストでした。親族や家臣の受洗を喜んだ高山友照は、沢城内に立派な教会を建てました。この教会を訪れたポルトガル商人で、のちにイエズス会宣教師となったルイス・デ・アルメイダは、城内の様子について「城は高い山の頂上にあり、着いたときには空中にいるような思いだった。城内にある教会はきわめて清潔で、祭壇に飾られたキリスト復活の聖画は彼(高山友照)が家臣に西洋画を模写させた物だったが、一見して原画のように巧みに描かれていた」と書き残しています。
1564年(永禄7年)に三好長慶が死去すると、三好氏は内紛などにより急速に衰退。高山友照と高山右近の親子も沢城を離れ、故郷である高山村へ戻ります。
そして1568年(永禄11年)頃、織田信長が摂津国から衰退した三好氏を追放し、同国の芥川山城(あくたがわやまじょう)を室町幕府の幕臣である和田惟政(わだこれまさ)に与えます。
これにより、高山親子は和田惟政に仕えることになりましたが、1571年(元亀2年)に和田惟政が「白井河原の戦い」(しらいかわらのたたかい)で戦死すると、高山親子はその息子を抗争の末に追放。高山友照は、新たに織田信長配下となった荒木村重(あらきむらしげ)の家臣として、摂津国高槻(せっつのくにたかつき:現在の大阪府高槻市)の高槻城主となりました。
やがて高山友照は高山右近に家督を譲り、新たな高槻城主となった息子を支えながら領内で布教を行い、1595年(文禄4年)に亡くなるまで熱心なキリシタンであり続けました。
1578年(天正6年)、荒木村重が主君の織田信長に謀反を起こします。「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)と呼ばれる戦で、高山右近は勝ち目のないその謀反を止めるため、自身の家族を荒木村重の居城である有岡城に人質として置き、説得を試みます。
しかしこの説得は失敗に終わり、織田信長と荒木村重の間で板挟みになった高山右近は、様々な状況を鑑みた末に自身の領地を織田信長に明け渡します。
そして荒木村重へ人質として出した家族を見放し、荒木村重への挙兵も行わないことと決め、まげを落として紙衣(かみこ:紙でできた衣)1枚という姿で織田信長の前に出頭しました。
このときの高山右近は、自分が寝返らなければ、畿内にいる宣教師やキリシタンをすべて処刑すると織田信長に脅されていたのです。高山右近による文字通り丸裸の降伏により、荒木村重は大いに動揺し、その勢いを弱めました。織田信長は、高山右近を許すだけでなく、高槻領の石高を従来の2万石から4万石に倍増し、教会の存続も認めました。真面目で義理堅い「人徳の人」として知られる高山右近の人柄をうかがわせるエピソードです。
なお、蒲生氏郷(がもううじさと)や黒田官兵衛がのちにキリシタンになったのも、高山右近の影響だと言われています。イエズス会はキリスト教の布教と西洋的な教育を目的として、安土(現在の滋賀県近江八幡市)と有馬(現在の長崎県南島原市)にセミナリオを設立しました。
高山右近はこのセミナリオの運営にも協力しており、安土のセミナリオの責任者である宣教師のグネッキ・オルガンティノに相談を受けた際には、自身の家臣の子ども8名を安土に送っています。また、1582年(天正10年)に「本能寺の変」で織田信長が命を落とし、そのあとに安土城とその城下町が火災により焼失してしまった際は、イエズス会が高山右近を頼る形でセミナリオを高槻に移転しています。
キリスト教への信仰心の強さで知られる高山右近ですが、武将としても大変勇猛だったと言われています。織田信長の死後、豊臣秀吉と明智光秀による「山崎の戦い」が始まると、高山右近は豊臣軍に加勢し、毛利軍との「備中高松城の戦い」(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)からの「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)で疲弊していた豊臣軍にあって、先鋒として奮起。
織田信長亡きあとの後継者と領地の再分配を決める「清洲会議」(きよすかいぎ)では恩賞として高山右近に摂津国能勢(せっつのくにのせ:現在の大阪府豊能郡)他4千石が与えられるなど、その功績が高く評価されています。
1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」や1585年(天正13年)の「四国征伐」でも高山右近は豊臣秀吉側に加勢。播磨国明石6万石が与えられ、豊臣秀吉の家臣としてその名をさらに上げていきました。
領民に慕われる領主であり、武将としても勇猛だったと伝えられる高山右近ですが、一方でキリスト教に傾倒するあまり領内の神社や寺院を焼き討ちするなど、仏教徒に対して厳しい迫害を加えていたとも言われています。仏教徒からは「邪教を信仰する暴君」と捉えられることもあり、キリスト教の信仰を貫いた「人徳の人」という一面だけで高山右近を評価することは公正ではない、という論説も少なくないのです。
そんな高山右近の運命が大きく暗転するきっかけとなったのが、1587年(天正15年)の「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)です。これは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、信者の数を急速に増やしていくキリスト教への警戒心を強めて発令したもので、豊臣秀吉は高山右近にも棄教を迫ります。しかし高山右近はそれを拒否し、キリスト教を信仰し続けることと引き換えに領地や財産をすべて放棄することを決意します。
この決断には、武将としての高山右近を高く評価していた豊臣秀吉も大いに驚くこととなりました。その翌年、1588年(天正16年)より高山右近は前田利家(まえだとしいえ)に招かれ、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)で暮らすようになりますが、1614年(慶長19年)にさらなる苦難が訪れます。江戸幕府の「キリシタン追放令」(きりしたんついほうれい)です。これは豊臣政権の伴天連追放令をさらに強硬化したもので、日本のキリシタンやイエズス会の宣教師はさらなる苦境に立たされました。
高山右近も加賀国から長崎へ送られ、南蛮船でフィリピン・マニラへ島流しとなったのです。しかし、マニラ到着後、わずか40日で高山右近は熱病でこの世を去ります。63歳でした。2
016年(平成28年)、ローマカトリックのフランシスコ教皇は、生前の功績や聖性を称えて高山右近の列福(れっぷく)を認可。翌2017年に大阪城ホールにて盛大な列福式が行われました。
列福とは、カトリック教会において特別な信者に「福者」(ふくしゃ)の称号を与えること。生前の功績や聖性が認められた者のみが与えられる特別な称号であり、より列せられるのが難しい「聖人」(せいじん)という称号もあります(よく知られるところではフランシスコ・ザビエルなどが列聖されています)。
日本でのキリスト教の発展に尽力し、その模範となる生き様を示したという意味で、高山右近が同時代のキリシタンに与えた影響は大きかったに違いありません。