豊臣秀吉から厚い信頼を受けた家臣として知られる「小西行長」(こにしゆきなが)。しかし、その生い立ちや人物像、そしてキリシタン大名としての行動や信条などについては、あまり知らないという方が多いのではないでしょうか。豊臣秀吉の死後、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」において石田三成(いしだみつなり)とともに西軍の主力として戦うも、徳川家康率いる東軍に敗退しました。京都で処刑されるまでの小西行長の生涯を見ていきましょう。
「小西行長」(こにしゆきなが)は、1558年(永禄元年)に京都で生まれました。イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記述によると、父親の小西立佐(こにしりゅうさ)は和泉国堺(いずみのくにさかい:現在の大阪府堺市)の商人で、フランシスコ・ザビエルが京都を訪れた際に世話役を務めたことがきっかけになり、イエズス会の宣教師と交流するようになります。
そして1565年(永禄8年)、宣教師のガスパル・ヴィレラよりキリスト教の洗礼を受けました。小西立佐の妻や長男も洗礼を受けていたため、次男である小西行長も当然の流れとして幼少期に洗礼を受け、アウグスティヌスの洗礼名を授かっています。その後、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県周辺)の宇喜多直家(うきたなおいえ)の家臣となり、商人から武士へと転身。
その経緯については確かな史料が残されていませんが、商人として領内に出入りしていたところを宇喜多直家に気に入られたのではないかと考えられています。1580年(天正8年)には播磨国美嚢(はりまのくにみのう:現在の兵庫県三木市)の三木城に立て篭もる別所長治(べっしょながはる)を攻めるため播磨に来ていた豊臣秀吉のもとに宇喜多直家の使いとして出向き、今度は豊臣秀吉に気に入られ、父とともに豊臣秀吉の家臣となります。
小西立佐と小西行長の父子はイエズス会や堺の商人との交流から得た海上交通の知識を活かし、豊臣秀吉の信頼を獲得していきました。翌年には播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県姫路市周辺)の室津湾(むろつわん)付近を領地として与えられています。
そして父子は同年、イエズス会に呼びかけて日本人修道士を領内に招聘。この修道士は多くの村人に慕われ、彼をきっかけとして多くの村人がキリシタンになったことが、ルイス・フロイスの「日本史」に書かれています。小西行長の出世は続きます。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉(前年に豊臣姓を名乗り始める)が薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)の島津忠長(しまづただなが)を降伏させ、九州平定を実現。その直後、小西行長に「九州北部沿岸の諸大名達を監督する」という重要な任務を与えます。
具体的には肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県)の松浦氏・有馬氏・大村氏、対馬国(つしまのくに:現在の長崎県対馬市)の宗氏ら諸大名に豊臣秀吉の命令を正確に伝え、それを受けた彼らがどのような行動をすべきか助言を与えるという取次の立場で、九州統治のための中心的な役割を果たしました。
また、小西行長がキリシタンであることから、同じキリシタンの有馬氏や大村氏らをうまく扱えるだろうという算段も豊臣秀吉にはあったのではないかと思われます。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉が「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令し、これまで保護してきたキリスト教を迫害するようになりました。小西行長も棄教を迫られ、その要求を受け入れます。小西行長にとってのキリスト教は、純粋な信仰の対象というよりは、政治的手段でした。そもそも父の小西立佐がキリシタンになった理由も、イエズス会との関係性を深めて経済を活性化させ、織田信長や豊臣秀吉らの権力に近付くことにあったと言われており、その息子である小西行長は父に言われるがままに洗礼を受けたに過ぎませんでした。
そのため小西行長は、キリシタン大名としてではなく、豊臣秀吉の忠実な家臣としての政治的判断をしたというわけです。とはいえ小西行長は、そこでガラッと立場を変えたわけではありません。表向きは棄教を受け入れ、領内の宣教師達に退去を命じたものの、イエズス会との関係を保つために、裏では宣教師達に理解を示し、同じ境遇に立たされても棄教しなかったために大名の地位を追われた高山右近(たかやまうこん)を小豆島にかくまいました。
高山右近が最後まで信仰を貫いたその生き方とは異なり、小西行長の姿はいかにも中途半端で煮えきらないものに思えるかもしれません。しかし豊臣秀吉とイエズス会の板挟みになりながらも両者の間で柔軟に立ち回ったことで、小西行長は豊臣政権での地位とイエズス会との信頼関係の両方を保持することに成功したのです。実際、翌年の1588年(天正16年)には肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)南部の領主に任命され、一気に14万石あまりの大名へと出世しています。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉がこの世を去ると、朝鮮に出兵していた小西行長らも日本に戻りました。豊臣秀吉の存命中は曖昧な態度を続けることで政治的地位とイエズス会との信頼関係を両立させてきましたが、自身を重用してくれる絶対君主を失った小西行長の立場は急速に危うくなります。
一方で豊臣秀吉の死去により領内でキリスト教を堂々と保護できるようになり、半年で30,000人とも言われる人々がこの時期にキリスト教の洗礼を受けました。
それと同時に、豊臣秀吉によって破壊された大坂の教会や修道院を聖堂及びキリシタン墓地として再建したり、堺に修道院や病院を建設したりと、イエズス会の支援活動を領外でも行いました。イエズス会との関係をより強固なものとすることで、豊臣政権内の権力争いで少しでも優位な立場を築こうとしたのでしょう。
しかし関ヶ原の戦いにおいて西軍が敗れたため、小西行長は徳川家康率いる東軍に追われる身となり、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)伊吹山の山中で捕縛されます。そして石田三成らと同じように市中引き回しの上、処刑されました。享年43歳。
切腹を命じられたものの、自殺が禁じられているキリスト教の教えを守ってそれを拒み、斬首されることを選びました。当時のイエズス会において、小西行長は「日本人のキリシタン達の支柱」と高く評価されました。常に政治家としての自分の立場を慎重に考えながら、ときにキリスト教に対して曖昧で消極的な姿勢を見せることもあった小西行長は、高山右近とはまったく違うタイプのキリシタン大名です。
高山右近は2016年(平成28年)、ローマカトリック教会によって「福者」(ふくしゃ:生前の功績や聖性が認められた信者のみに与えられる称号)の位に上げられました。信者という意味では、小西行長は高山右近ほど純粋な信仰心を持ち合わせていなかったかもしれません。
しかし、絶対君主である豊臣秀吉による伴天連追放令下で小西行長に理解ある配慮をされた当時のイエズス会は、余人をもって代え難い「支柱」として変わらぬ信頼を寄せました。タイプやスタンスは違いますが、両者はともに日本におけるキリスト教の普及に貢献したという点で多くの人々に記憶されるべきキリシタン大名と言って良いでしょう。