「蒲生氏郷」(がもううじさと)は、武力と統率力に長けた有能な武将であると同時に、千利休(せんのりきゅう)の高弟(こうてい:弟子の中でも特に優れた者)としても知られる文武両道型の戦国大名です。少年期より織田信長に仕えて高く評価され、のちに豊臣秀吉の家臣としても頭角を現した蒲生氏郷がキリスト教の洗礼を受けたとき、イエズス会の宣教師達は「日本でのキリスト教の布教において強い影響力を持つに違いない大物がキリシタンになった」と喜び、当時のイエズス会の会報では「いままでキリシタンになった者のなかで、最も重きをなす人」と称賛しています。蒲生氏郷がどのような経緯でキリシタンになる道を選んだのか、キリシタンとしてどのような信仰生活を送っていたかなどを見ていきましょう。
「蒲生氏郷」(がもううじさと)は、1556年(弘治2年)、近江国蒲生(おうみのくにがもう:現在の滋賀県蒲生郡)で日野城主(ひのじょうしゅ)、蒲生賢秀(がもうかたひで)の子として生まれました。
近江国の守護大名、六角義賢(ろっかくよしかた)の重臣だった蒲生賢秀は、1568年(永禄11年)の「観音寺城の戦い」(かんのんじじょうのたたかい)で六角氏が織田信長に滅ぼされると、息子の蒲生氏郷(当時の幼名は鶴千代)を人質として差し出し、織田信長の家臣となりました。
13歳で岐阜城に赴いた蒲生氏郷は、人質でありながら織田信長にとても可愛がられ、この時期に多くの学問や文化を身に付けたと言われています。14歳で元服(げんぷく:男子を一人前の男として認める儀式で、当時は12~16歳ぐらいの年齢で行われた)した蒲生氏郷は、織田信長が伊勢国(現在の三重県周辺)の国司(こくし:国に派遣された官吏)である北畠氏の領内に侵攻した「大河内城の戦い」(おかわちじょうのたたかい)にて初陣を飾りました。ここでの活躍が織田信長に高く評価され、帰陣後に身柄を解放されています。
織田信長の次女である冬姫(ふゆひめ)を娶(めと)って日野城に戻った蒲生氏郷は、以降も父の蒲生賢秀とともに様々な戦でめざましい活躍を見せ、織田信長からさらに高い信頼を得ました。1582年(天正10年)、明智光秀の謀反による「本能寺の変」で織田信長が非業の死を遂げた際にも手早く兵馬を安土城へ向かわせ、織田信長の家族らを日野城に呼び寄せてかくまうなど、最後までその忠誠心は変わることがありませんでした。
同年の「清洲会議」にて豊臣秀吉の家臣となった蒲生氏郷は、翌1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」で滝川一益(たきがわかずます)の陣があった伊勢国亀山(現在の三重県亀山市)近辺の諸城を攻めます。
これにより、清洲会議後に豊臣秀吉との対立が明らかとなった織田信孝(おだのぶたか)・柴田勝家の側についた滝川一益を降伏させ、蒲生氏郷は豊臣秀吉より亀山城を与えられました。続く1584年(天正12年)、豊臣秀吉が織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康の連合軍と戦った「小牧・長久手の戦い」でもその活躍が認められ、6万石の日野から12万石の伊勢国松ヶ島(いせのくにまつがしま:現在の三重県松阪市松ヶ島町)に移封(いほう:領地を他の場所に移すこと)しています。
そんな蒲生氏郷が大坂でキリスト教の洗礼を受け、レオンの洗礼名が与えられたのは、1585年(天正13年)のこと。茶の湯仲間である高山右近(たかやまうこん)や牧村利貞(まきむらとしさだ)に勧められての決断でした。かねてより親交の深かった高山右近にキリスト教について教えられた蒲生氏郷は、当初それほど興味を示さなかったと言われています。
そこで高山右近は、同じキリシタンである牧村利貞に声をかけ、2人で蒲生氏郷の説得にあたりました。牧村利貞が伊勢国松ヶ島への移封に一役買っていたことから、蒲生氏郷は牧村利貞に強い恩義を感じており、牧村利貞の話なら積極的に聞くという姿勢を示したからです。やがて蒲生氏郷は自分から進んでイエズス会の宣教師に会って、キリスト教の教義や説教を聞くようになり、大坂の教会で洗礼を受けました。
イエズス会宣教師、ルイス・フロイスの記録によれば、このとき蒲生氏郷は「大いなる励ましにすべて満足した」と語ったとされています。キリシタンとなった蒲生氏郷は、伊勢に戻ると家臣や友人に熱心に受洗(じゅせん:キリスト教の洗礼を受けること)を勧めたと言われています。
キリシタン武将のなかには、南蛮貿易(なんばんぼうえき)による利益を目的にキリシタンになった者も少なくありませんでした。実際、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令すると、多くのキリシタン武将がキリスト教の信仰を棄てています。蒲生氏郷は、自身の領内で暮らす人々をすべて受洗させようと画策するほど熱心なキリシタン武将になりましたが、同時に豊臣秀吉の忠臣でもあったため、伴天連追放令の発令後は表向きにはキリスト教を広める積極的な行動は控えるようになります。
伴天連追放令が発令された1587年、蒲生氏郷は九州平定の一環である「巌石城攻め」(がんじゃくじょうぜめ)にて筑前国の大名である秋月種実(あきづきたねざね)の家臣、熊井久重(くまいひさしげ)の居城である巌石城を攻略し、武将としてさらにその名を高めます。その後も「小田原の陣」(おだわらのじん)や奥羽平定(おううへいてい)などで戦功が評価され、42万石の会津若松城主(あいづわかまつじょうしゅ)となりました。
会津へ移封後は、イエズス会の宣教師との交流も途絶え、キリシタンとしての信仰心は完全になくなったように思われましたが、蒲生氏郷は心の内では変わらずキリシタンであり続けました。豊臣秀吉の政策に配慮し、表立った活動は控えていたものの、時が許せば自身の領地に多くの宣教師を招き、再びキリスト教の教えを広めていこうと、親友の高山右近と話し合っていたのです。
1592年(文禄元年)、朝鮮出兵に先立ち、肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県)の名護屋城(なごやじょう)に豊臣秀吉が訪れました。
その際、伴天連追放令に従わなかったため領地や財産をすべて失った高山右近が茶会に招かれたという知らせを受け、蒲生氏郷は豊臣秀吉の高山右近に対する気持ちが和らいできていることを察知します。
そこで機会をうかがい、イエズス会の宣教師達を再び各地に滞在させ、全国にキリスト教を広めることを高山右近とともに豊臣秀吉に願い出ようと考えました。しかしその頃、蒲生氏郷の身体はすでに重い病に蝕まれており、もはや身動きすらままならない状況でした。高山右近は病床の蒲生氏郷を何度も見舞い、キリシタンとしての夢を語り合ったと言われています。
1595年(文禄4年)、親友に臨終のときが訪れたことを悟った高山右近は、蒲生氏郷に告解(こっかい:カトリック教会で定められた「ゆるしの秘跡」の旧称。自らの罪を司祭に告白し、ゆるしを願う行為)を勧めました。そして蒲生氏郷は「いまだ主を知るに至らず、忠実ならざることを悔やむ」という意味の言葉を述べ、高山右近の差し出したマリア像を見つめたまま、40歳という若さで息を引き取りました。
冒頭で触れたように、蒲生氏郷は有能な武将であると同時に儒学や仏教に通じ、歌人としてもその生涯で数多くの和歌を詠み、茶の湯への造詣も深いという、文武両道を絵に描いたような人物でした。茶の湯の世界では、千利休の門下として特に優れた7名の高弟を指す「利休七哲」(りきゅうしちてつ)の筆頭に位置付けられています。
なお、利休七哲の他の6名は高山右近、牧村利貞、細川忠興(ほそかわただおき)、古田重然(ふるたしげなり)、芝山宗綱(しばやまむねつな)、瀬田正忠(せたまさただ)。このうち細川忠興と古田重然の2名以外の5人がキリスト教の洗礼を受け、キリシタン武将となっています。
イエズス会では当時、日本の文化に適応することでキリスト教の布教を進めようという方針がありましたが、なかでも精神性を重んじる茶の湯はキリスト教との親和性が高いと見られていました。もし蒲生氏郷が40歳で早世することなく、豊臣秀吉にキリスト教の布教を願い出ていたのなら、キリスト教は日本文化と強く結び付きながら、別の形で広まっていったのかもしれません。