「稀代の知将」として豊臣秀吉の天下統一事業に大きく貢献した「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)。黒田官兵衛は熱心なキリシタンでもあり、日本でのキリスト教の発展に尽力しました。キリシタン武将としての黒田官兵衛にスポットをあて、キリスト教の洗礼を受けた40歳前後からのエピソードを中心にご紹介します。
「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)は、1546年(天文15年)、播磨国姫路(はりまのくにひめじ:現在の兵庫県姫路市)に生まれました。父の黒田職隆(くろだもとたか)は播磨城主の小寺政職(こでらまさもと)に仕え、播磨城の支城である姫路城を預かる重臣でした。
1567年(永禄10年)に22歳で家督を継ぐとともに、小寺政職の姪にあたる光姫(てるひめ)を正室に迎えます。黒田官兵衛は当時の武将としては珍しく側室を持たず、生涯にわたり正室である光姫だけを愛しました。のちにキリスト教の洗礼を受けた背景には、一夫一婦制を大原則とするキリスト教の教義への共感もあったのではないかと言われています。
1575年(天正3年)、主君である小寺政職に、織田信長への臣従を進言。織田信長の下で数々の実績を重ねます。ところが1578年(天正6年)、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府と兵庫県の一部)の荒木村重(あらきむらしげ)が織田信長に謀反を起こしたため、謀反の撤回を説得すべく荒木村重の居城である有岡城(ありおかじょう)に乗り込むも捕縛されてしまい、1年余りの幽閉生活を余儀なくされます。
黒田官兵衛は左足が不自由で、頭部には大きなできものがあったと言われていますが、それらは長期間にわたって過酷な環境に幽閉されたことが原因と見られています。
織田信長亡きあとは羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、天下統一の足がかりとなる様々な合戦で軍師として活躍しました。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスやグレゴリオ・デ・セスペデスの残した書簡によれば、黒田官兵衛がキリスト教の洗礼を受けたのは1585年(天正13年)の8月頃(1583年の説もあり)。年齢は40歳前後だったと言われています。
同年の5月に「四国平定」が開始され、黒田官兵衛は宇喜多秀家(うきたひでいえ)や蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)らとともに讃岐に上陸。7月に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が降伏し、四国平定は終息を迎えました。その直後に敬愛する父、黒田職隆が死去したことも受洗(じゅせん:キリスト教の洗礼を受けること)のきっかけのひとつになったのかもしれません。
すでに洗礼を受けてキリシタンとなっていた小西行長(こにしゆきなが)や高山右近(たかやまうこん)、蒲生氏郷(がもううじさと)に勧められる形で洗礼を受けました。黒田官兵衛と小西行長は四国平定の際に行動をともにしていたと言われています。
また、高山右近と蒲生氏郷はいずれも千利休(せんのりきゅう)の高弟であり、黒田官兵衛とは茶の湯仲間でした。気心の知れた3人のキリシタン武将からキリスト教の教義を聞き、関心を持ったのでしょう。ルイス・フロイスの書簡には、受洗後の黒田官兵衛が大坂のイエズス会副管区長のもとを数回訪れ、「教会のためにできることがあれば何なりと助力しようと申し出ていた」ということが書かれています。
1582年(天正10年)に「本能寺の変」の知らせが入った際、「備中高松城の戦い」(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)のさなかにいた豊臣秀吉は、織田信長の死を受けて茫然自失の状態に陥りました。しかし黒田官兵衛はこのとき冷静に「これで殿[豊臣秀吉]の御運が開けましたな」と語ったそうです。
天下統一の功労者のひとりであるにもかかわらず、豊臣秀吉が黒田官兵衛に豊前国中津(ぶぜんのくになかつ:現在の大分県中津市周辺)のわずか12万石の領地しか与えなかったのは、彼のそういった抜かりない策略家としての側面を豊臣秀吉が警戒したためと言われていますが、一方で「黒田官兵衛がキリシタンであることを心よく思っていなかった」という説も根強く残っています。
豊臣秀吉は、1587年(天正15年)に「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令し、領主層のキリシタン武将達に棄教を迫りました。高山右近が棄教を拒否し、キリスト教の信仰と引き換えに領地や財産をすべて失うことになったものの、他の多くの武将達は表面上では棄教を誓い、秘密裏に信仰を続ける道を選択しています。
そして豊臣秀吉も、それ以上各武将達の心の内を深く詮索することはありませんでした。高山右近の一件で、自分の有能な家臣をこれ以上追放せざるを得ない状況をつくり出すことは、自身の政権にも悪影響を及ぼすと考えたのでしょう。宣教師のガスパール・コエリョがイエズス会の年報に記した内容によれば、黒田官兵衛も豊臣秀吉からキリシタンであることをとやかく言われることはなかったと言われています。
しかし、豊臣政権になくてはならない軍師である黒田官兵衛が多くの武将にキリシタンになることを強く勧め、イエズス会への支援を表明していることを豊臣秀吉が関知していたことは間違いなく、そのあと急速にキリシタンへの締め付けを強める一因になった可能性も十分に考えられます。
1589年(天正17年)、黒田官兵衛は長男の黒田長政(くろだながまさ)に家督を譲りましたが、その後も引き続き豊臣秀吉の側近として小田原城の無血開城などを成功させた他、1592年(文禄元年)の「文禄の役」(ぶんろくのえき)で朝鮮出兵にも加わりました。
翌1594年(文禄2年)の8月頃には剃髪(ていはつ:髪を剃ること)し、それまでの実名である「孝高」(よしたか)に代わって「如水軒円清」(じょすいけんえんせい)を名乗り始めています。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去したのち、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では黒田長政が徳川家康の養女と婚姻関係を結んだことから徳川勢の東軍として戦っていますが、この頃から黒田官兵衛の身体は徐々に病に侵されており、1604年(慶長9年)の3月に京都伏見藩邸で死去。59歳でした。
その死に際して、黒田官兵衛はキリスト教のロザリオと祈りの言葉が書かれた紙を胸に抱き、自身の亡骸をイエズス会の宣教師のところへ運ぶよう命じたと言われています。その死から2年後、領内に黒田官兵衛の追悼記念聖堂が完成し、追悼ミサが執り行われました。
竹中半兵衛(たけなかはんべえ)とともに「二兵衛」として豊臣政権下で重用された黒田官兵衛は、現在に至るまで歴史ファンに高い人気を誇る戦国武将であり、その生涯は数々の興味深いエピソードに彩られています。一方で、キリシタン武将としての黒田官兵衛についてはまだまだ知られていない部分が多く、「どのキリシタン武将よりも布教に熱心だった」と言われる一方で「高山右近や蒲生氏郷ほど熱心な信者ではなかった」、「キリスト教の教義には疎かった」といった見方もあります。
しかし、豊臣秀吉の側近中の側近でありながら、彼の発令した伴天連追放令を受けても明確に棄教の意志を示さなかったことは、黒田官兵衛の信仰心の強さを何よりも強く物語っているのではないでしょうか。