毛利元就(もうりもとなり)の息子と言えば、よく知られるのは次男の吉川元春(きっかわもとはる)、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)の2人で、九男の「毛利秀包」(もうりひでかね)はそれほど広く知られる存在ではありません。しかし筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南部)の久留米城(くるめじょう)を居城としてからの毛利秀包は、城下でのキリスト教の宣教を保護し、キリシタン武将としてキリスト教の発展に少なくない貢献を果たしています。そんな毛利秀包の35年の生涯を振り返ってみましょう。
毛利秀包は、1567年(永禄10年)に安芸国高田郡吉田(あきのくにたかたぐんよしだ:現在の広島県安芸高田市)にて毛利元就の九男として生まれました。
当時の毛利元就は巧みな縁組政策を行っており、近隣の有力な豪族である吉川家(きっかわけ)に次男の毛利元春(もうりもとはる:のちの吉川元春)、小早川家(こばやかわけ)に三男の毛利隆景(もうりたかかげ:のちの小早川隆景)を養子として出し、両家には長年にわたって強い影響力を及ぼしています。
父の毛利元就が死去した1571年(元亀2年)、毛利秀包は5歳で備後国(びんごのくに:現在の広島県東部)の武将、大田英綱(おおたひでつな)の養子となり、大田元綱(おおたもとつな)と名乗るようになりました。そのあと1579年(天正7年)には、30歳以上も年齢の離れた兄、小早川隆景の養子に。小早川元総(こばやかわもとふさ)と名を変えています。
1582年(天正10年)、毛利氏の家督を継いだ毛利輝元(もうりてるもと)は、「備中高松城の戦い」(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)において当時はまだ織田信長の家臣だった豊臣秀吉と戦い、苦境に立たされました。しかし同年の「本能寺の変」で織田信長が命を落としたことを契機に、毛利氏と織田氏・豊臣氏の和睦が成立し、当時15歳前後だった毛利秀包は大坂の豊臣秀吉のもとに人質として送られます。
1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」では、豊臣軍として出陣。その活躍が認められ、豊臣秀吉の名前から一文字を贈られて毛利秀包と改名しました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉のもとから解放されて備後国に戻った毛利秀包は、その後も豊臣秀吉に従属。翌1586年(天正14年)の「九州平定」では養父の小早川隆景とともに出陣してその戦功が評価され、豊臣秀吉より筑後国の3郡を与えられました。そして九州最大の河川である筑後川(ちくごがわ)に面する久留米城を居城として与えられたのです。このときの毛利秀包は、まだ21歳という若さでした。
毛利秀包がキリスト教の洗礼を受けたのは、久留米城に入った1586年(天正14年)前後だと言われています。豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)の守護大名で、キリシタンでもあった大友宗麟(おおともそうりん)の七女である桂姫(かつらひめ)と結婚したことがきっかけでした。大友宗麟は毛利秀包が久留米城に入る頃にはすでに死去していましたが、娘の桂姫もまた熱心なキリシタンだったのです。
桂姫は豊後国を訪れたイエズス会宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノの説教に感銘を受け、16歳になる1585年(天正13年)に受洗(じゅせん:キリスト教の洗礼を受けること)。マセンシアという洗礼名を授かっています。桂姫の信仰に毛利秀包が強い影響を受けたことは間違いありません。時期は明確ではないものの、毛利秀包はキリスト教の洗礼を受け、シマオ・フィンデナオという洗礼名を授かり、久留米の地でキリスト教の発展に力を注ぐようになりました。
なお、桂姫は毛利秀包の死後、当主である毛利輝元から棄教(ききょう:信仰を棄てること)を求められましたが、それには応じることなく、1648年(慶安元年)に79歳で死去するまで熱心なキリシタンであり続けたと言われています。
また、1588年(天正16年)頃に2人の間に生まれた毛利元鎮(もうりもとしげ)もイエズス会宣教師のルイス・フロイスより幼児洗礼(生まれて間もなく、キリスト教の洗礼を受けること)を受け、フランシスコの洗礼名を授かりました。
久留米城主・毛利秀包がキリスト教を保護したことで、この頃の久留米周辺では急速にキリシタンの数が増えました。イエズス会宣教師のペドロ・ラモンを久留米城に招聘し、家臣にキリスト教の教えを聞かせ、わずか数日で36人を洗礼に導いています。
1587年(天正15年)に豊臣秀吉は「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令し、形の上ではキリスト教の発展を制限するようになっていましたが、それはまだ厳しいものではなく、なかには豊臣秀吉の目の届かないところで信仰を続けるキリシタン武将もいました。
毛利秀包もそのひとりで、大友宗麟の家督を継いだ豊後国の大友義統(おおともよしむね)が棄教した際には、大友氏の領有する豊後国から毛利氏の領有する筑後国に300人のキリシタンが流れてきたと言われています。
そして毛利秀包は、イエズス会宣教師を城に招く際には医師に変装させるなど、細心の注意を払って宣教活動を行うようになります。筑前を領有していた養父の小早川隆景が豊臣秀吉への忖度から表立ってキリスト教を支援することを止めており、養子の毛利秀包としてはそんな小早川隆景の目を気にする必要があったからです。
しかし、毛利秀包による久留米周辺でのキリスト教の保護は、それほど長く続きませんでした。豊臣秀吉が死去した1598年(慶長3年)からの数年は受洗者の数が300人を超え、1600年(慶長5年)には1,900人が集団受洗するなど、最盛期を迎えます。同年の「関ヶ原の戦い」で毛利輝元とともに石田三成(いしだみつなり)率いる西軍に付いて戦ったものの、西軍が徳川家康率いる東軍に敗退。留守にしていた久留米城は東軍の黒田官兵衛らの攻撃を受けて孤立し、黒田官兵衛の異母弟である黒田直之(くろだなおゆき)の開城勧告を受け入れる形で城を明け渡しています。
このとき城内にいた妻の桂姫と長男の毛利元鎮は黒田直之によって保護され、黒田家の人質に。城を明け渡した毛利秀包は棄教し、京都の大徳寺で頭を丸め、道叱(どうしつ)と名乗る僧侶になりました。しかしこの頃には毛利秀包の身体は病に侵されており、長門国赤間関(ながとのくにあかまぜき:現在の山口県下関市)で療養に入りましたが、1601年(慶長6年)に35歳の若さでこの世を去りました。
毛利秀包は、とても美しい容姿であったとされています。吉川元春や小早川隆景に比べると影の薄い毛利秀包ですが、実は武将としても大変勇猛だったと言われており、小早川隆景が弟である毛利秀包を養子として迎えたのは、何よりも武将としての勇猛さを買ってのことだったと言われています。もし35歳で早世することがなければ、武将として、キリシタンとして、より大きな功績を残していたかもしれません。