織田信長は南蛮文化に好意的で、イエズス会によるキリスト教の布教も保護したと言われています。実際、1549年(天文18年)にフランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸によって伝来したキリスト教は、織田信長が政権を手にした1573年(天正元年)前後から信者の数を大きく増やしていきました。織田信長本人もキリスト教に強い関心を持ち、宣教師との会見を何度も開いてその教えに耳を傾けましたが、それはあくまでも政治的関心によるものであって、自身が洗礼を受ける(キリスト教の信者になる。受洗とも言う)という考えは一切なかったようです。そんな織田信長の家系に生まれながらキリスト教の洗礼を受け、信者になったことが明らかになっている「織田信秀」(おだのぶひで)をご紹介します。
織田家には、2人の「織田信秀」がいました。ひとりは織田信長の父、もうひとりは織田信長の六男です。父の織田信秀は比較的良く知られていますが、六男の織田信秀を知る方はそれほど多くないでしょう。こちらの織田信秀(織田信長の六男)は、男女合わせて23人いたという織田信長の子どものうち、唯一キリスト教の洗礼を受けたとされる人物です。
織田信秀(織田信長の六男)については、それほど多くの記録が残されているわけではありません。イエズス会の宣教師、アントニオ・プレネスティーノの文書によると、受洗日は1587年11月1日(天正15年10月1日)。同じくイエズス会のルイス・フロイスの記した「日本史」によると、受洗時の年齢が17歳とあり、これらの記述から織田信秀(織田信長の六男)の生年月日は1570年(元亀元年)前後と推測されています。
幼名は大洞(おおぼら)、通称は三吉(さんきち)。織田信長が1582年6月21日(天正10年6月2日)の「本能寺の変」で命を落とした際には、生前の織田信長に与えられた美濃国揖斐郡(みののくにいびぐん)内を所領していましたが、1582年7月26日(天正10年6月27日)の「清洲会議」により近江国栗太郡(おおみのくにくりたぐん)内を所領することが定められました。
そのあと、豊臣秀吉の家臣となり、1585年(天正13年)に従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任。豊臣秀吉の生涯を綴った「太閤記」(たいこうき)によると、1592年(文禄元年)の「文禄の役」(朝鮮出兵)では兵士300名の軍備を命じられていることから、織田信秀(織田信長の六男)の禄高は1万石程度であったと思われます。
先述のルイス・フロイス日本史には、織田信秀(織田信長の六男)が彼の従兄弟にあたるクマノスケ(織田熊之丞:織田信長の姉妹の子)と一緒に大坂の修道院を訪れて宣教師の説教を聞き、そのまま受洗。ペトロの洗礼名を授かったと書かれています。
また、アントニオ・プレネスティーノは織田信秀について、文書で「彼は織田信長の息子で、稀にみる天分を有しており、数ヵ月前に大坂で洗礼を授かった若者である。彼は私が贈った美しい象牙製のロザリオを首に懸けていた」と記録しています。
日本史には「近江国にいた織田信秀(織田信長の六男)の母は、息子がキリシタンになったと聞き、パウロと名乗る家臣に勧誘されたのだと疑った。そしてパウロを斬首するよう言ったが、息子は一笑に付しただけでまったく問題にしなかった」とも書かれています。キリスト教の洗礼を受ける以前の織田信秀(織田信長の六男)は浄土真宗だったと言われており、母にとって織田信秀(織田信長の六男)の改宗が衝撃的な出来事だったことがうかがえるエピソードです。
織田信秀(織田信長の六男)が受洗した理由として、豊臣政権下の大坂における盛んな宣教活動が挙げられます。イエズス会は、京都と周辺諸国での宣教を重要視していました。そのためイエズス会のグネッキ・ソルディ・オルガンティーノは、1583年(天正11年)に豊臣秀吉に謁見し、建設が始まっていた大坂城下に教会を建てることを願い出ました。
豊臣秀吉がこの願いに応じたことで教会の建築が実現し、同年末には大坂で初めてのクリスマス・ミサがその教会で執り行われています。この時期のルイス・フロイスの書状には、大坂で身分の高い者から約100名の受洗者が生まれたこと、そして彼らが自分達の土地の人々をキリスト教に改宗させることを期待する旨が書かれています。
実際、高山右近の領地である高槻(たかつき)で集団改宗が進むなど、キリスト教は都周辺で順調に広まっていきました。そのあとも豊臣秀吉は、イエズス会士の日本全国での宣教を認可する「教会保護状」を発給するなど、キリスト教を保護する政策を進めました。のちに「バテレン追放令」を発令し、キリスト教や南蛮貿易に関して制限を表明する豊臣秀吉ですが、織田信長のあとを継いだ直後の数年間は容認の立場を取っていたのです。
ルイス・フロイスの日本史には、受洗後の織田信秀(織田信長の六男)の信仰生活についての記述があります。これによると織田信秀(織田信長の六男)は、文禄・慶長の役 [朝鮮出兵]あたりを境にキリスト教から少し離れ、やや不熱心になったが、病気になったのを機に信仰を取り戻し、再び神父から教理の説明を聞くようになった」と書かれています。このときに織田信秀(織田信長の六男)の患った病はハンセン病でした。彼の正確な死没年は判明していませんが、父の織田信長以上に若くして亡くなったことは間違いないでしょう。
織田信秀(織田信長の六男)の他にもうひとり、織田家でキリシタンとなった人物がいます。それは、織田信長の孫にあたる「織田秀信」(おだひでのぶ)です。
織田秀信の名に聞き覚えがなくても、三法師(さんぽうし)の幼名を知っている方は多いのではないでしょうか。
織田信長の長男・織田信忠(おだのぶただ)を父に持つ三法師は、1580年(天正8年)生まれ。本能寺の変により、わずか3歳で祖父と父を同時に亡くし、清洲会議では豊臣秀吉の支持を得て織田家の家督を相続。そのあと、豊臣秀吉から一字を授けられ、織田秀信を名乗るようになりました。
織田秀信が受洗するきっかけとなったのは、家臣に熱心な信者がいたからです。そして織田秀信自身も受洗後は熱心な信者となり、彼に仕える小姓や異母弟である織田秀則(おだひでのり)や乳母らに呼びかけて次々と改宗させました。この頃は「バテレン追放令」が発令されていた時期であり、織田秀信のように身分の高い大名でも受洗は秘密にしていたと言われています。織田秀信が受洗の事実を公にしたのは、豊臣秀吉が亡くなった1598年(慶長3年)以後のことで、翌年には岐阜城下に教会が建設されました。
織田信長を祖父に持つ織田秀信ですが、その人生は決して輝かしいものではありませんでした。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では石田三成率いる西軍に加勢し、岐阜城に篭城するも、東軍の福島正則に投降。その後は剃髪して高野山に入りましたが、かつて祖父の織田信長が攻め入った経緯などから入山がなかなか許されず、入山したのちも幾度となく迫害を受けたと言われています。1605年(慶長10年)に追放に近い形で高野山を下りましたが、すでにこの頃の織田秀信は健康を害しており、下山から20日も経たずして亡くなりました。まだ26歳という若さでした。
織田信秀(信長の六男)と織田秀信。2人の共通点は、いずれも豊臣政権下でキリスト教の洗礼を受けていることと短命だったことです。織田信長という父・祖父を持ちながら、その意志を継いで天下人となった豊臣秀吉の下で、さほど歴史に残るような活躍もしないまま、短い一生を終えました。
しかし、織田信長が理解を示し保護したキリスト教が、信仰という形で子孫であるこの2人に受け継がれたという事実は、注目されるべきではないでしょうか。