「徳川家康」は、何度も危機を切り抜けて天下を手にしましたが、なかでも1563年(永禄6年)に起きた「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)は、徳川家康の三大危機に数えられる出来事でした。この頃、徳川家康は本拠地・三河国(現在の愛知県東部)の統一に乗り出していましたが、一向宗の寺院や信徒と対立し、武力衝突に発展したのです。しかし、徳川家康の家臣にも一向宗信徒は多く、なかには一揆側に与した者もあり、徳川家康は苦戦しました。三河一向一揆が起きた背景や激戦の経緯、また徳川家康の家臣の離反騒動について紹介します。
一向宗(いっこうしゅう)は、鎌倉時代の僧「親鸞」(しんらん)が開いた浄土真宗の古い呼び方です。親鸞は、念仏を唱えながら阿弥陀仏の救いを信じて極楽浄土を目指すことを説き、この分かりやすい教えが、武家や商人、農民などの幅広い層に広まりました。
一向宗のなかでも浄土真宗本願寺教団の信徒は組織力が強く、一向一揆(いっこういっき)と呼ばれた、支配者への抵抗運動を各地で起こすようになります。特に、1488年(長享2年)に加賀国(現在の石川県)で起きた「加賀一向一揆」(かがいっこういっき)は大規模でした。一揆勢が守護大名「富樫政親」(とがしまさちか)を滅ぼし、そののち、この地では約100年間にわたり、信徒による自治が続いたのです。
三河一向一揆が起きた当時の三河国は、徳川家康の源流・松平氏の本家や分家による分割統治を経て、徳川家康が統一支配を目指して内戦を繰り広げていました。当時は、それまで鎌倉幕府や室町幕府に任命されて、各地の徴税の権限や警察の機能を持っていた「守護」(しゅご)が没落し始め、徳川家康のような戦国大名が台頭し、自力で領国を獲得し始めた時代です。
新勢力の戦国大名らは、前時代に制度化されていた守護や寺社の特権を廃止したり、奪ったりすることで領国支配を固めていきました。
そうした特権のひとつに、三河国の浄土真宗本願寺派の寺に与えられていた「守護使不入」(しゅごしふにゅう)があります。
守護使不入は、守護やその使者が罪人の追跡や徴税のためであっても寺に立ち入れないとする決まりで、これが認められた寺は課税されず、警察権も及ばない治外法権領域でした。
徳川家康が三河国の統一を果たすには、このような既得権益を持つ階層と対立しなければならず、三河一向一揆は避けられなかったとも考えられています。
三河一向一揆の発端は、徳川家康の家臣が守護使不入を侵害して、浄土真宗本願寺派の寺に立ち入ったことだと考えられています。
その経緯については諸説があり、本證寺がかくまっていた無法者を追ってのことだったとも、上宮寺の備蓄米を取り立てるためだったとも言われていますが、どちらにしても三河三ヵ寺とその信徒は憤りました。
ついに住職・空誓上人は、上宮寺や勝鬘寺と共に信徒を集めて蜂起します。そこへ古くから三河国各地を領有してきた領主らが、徳川家康に奪われた領地と特権を取り戻そうと参戦しました。こうして三河一向一揆は、一揆勢と旧領主、徳川家康との闘争にもつれ込み、それぞれが籠城戦や城攻めを繰り広げ、半年間も続いたのです。
三河一向一揆は1563年(永禄6年)9月に始まり、翌年1564年(永禄7年)2月に和議が成立しています。この間、一揆勢は徳川家康の本城「岡崎城」(愛知県岡崎市)に迫るほど猛撃しており、これ以上戦いを長引かせたくなかった徳川家康は、一揆に加わった者を罰しないことや、引き続き守護使不入権を認めるという講和条件を了承しました。
しかし、徳川家康は、一揆に加担した武士らを三河国外に退去させてしまうと、講和条件を反故にして、一向宗の寺を破却します。また、空誓上人ら三河三ヵ寺の僧を三河国から追放し、その後20年間、一向宗は三河国で活動できませんでした。
徳川家康の家臣団は、忠義に厚く勇猛な三河武士揃いだったと語り継がれています。その忠臣の多くが三河一向一揆の際には徳川家康から離反し、一揆側に付いてしまいました。彼らは一向宗の信徒だったため、忠心と信仰の間で苦悩した末、徳川家康と敵対する道を選んだのです。
ここでは、三河一向一揆で徳川家康と袂を分かった主な家臣と、彼らのその後を紹介します。