室町時代

二俣城の戦い
/ホームメイト

二俣城の戦い 二俣城の戦い
文字サイズ

「二俣城の戦い」(ふたまたじょうのたたかい)とは、1572年(元亀3年)に起こった「徳川家康」軍と「武田信玄」軍による「二俣城」(静岡県浜松市天竜区)を巡る攻防戦です。 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄は、徳川家康・「織田信長」打倒のために挙兵。およそ27,000の大軍勢を率いて徳川家康の所領である遠江国(現在の静岡県西部)・三河国(現在の愛知県東部)への侵攻を開始します。これが世に言う武田信玄の「西上作戦」(せいじょうさくせん)です。二俣城の戦いは西上作戦における戦いのひとつであり、徳川家康最大の敗戦とも言われる「三方ヶ原の戦い」の前哨戦(ぜんしょうせん)にあたります。二俣城の戦いとはどのような戦いだったのでしょうか。当時の歴史的背景も交えて探っていきます。

大河ドラマ歴史年表(歴代別/時代別)
これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。
大河ドラマ どうする家康
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

二俣城の戦いが起こった背景

利害関係により交錯する同盟

1554年(天文23年)、武田信玄は駿河国(現在の静岡県中部)・遠江国・三河国を領有する今川氏と、関東の西部を中心に支配する北条氏(後北条氏)との間で三国同盟を締結。

この同盟により、武田氏は今川氏・北条氏から攻められるという心配がなくなり、北信濃(現在の長野県北部)の支配権を巡って対立する越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信」との戦いに集中することができるようになりました。

ところが、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で今川家第11代当主「今川義元」(いまがわよしもと)が織田信長に敗れて討死すると三国同盟にも揺らぎが生じます。

徳川家康

徳川家康

今川氏に従属していた徳川家康(当時は松平元康)は独立し、故郷である三河国を領有。さらに、尾張国(現在の愛知県西部)の織田信長と清洲同盟を結びます。

当時、織田信長は美濃国(現在の岐阜県南部)の斎藤氏と敵対していたため、徳川家康との同盟は織田信長にとっても都合が良かったのです。

一方、1567年(永禄10年)には、徳川氏・織田氏と武田氏との間で同盟が結ばれます。翌1568年(永禄11年)、武田信玄は駿河国へ侵攻。また、徳川家康が遠江国へ侵攻し、戦国大名としての今川氏は滅亡へと追い込まれました。

徳川家康・織田信長と武田信玄が対立へ

徳川家康・織田信長と、武田信玄との関係に亀裂が入ったのは、1571年(元亀2年)の織田信長による「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)の焼き討ちであると言われています。

織田信長側にどのような理由があったにせよ、自身も仏門に入っていた武田信玄にとっては到底容認することはできませんでした。さらにその頃、織田信長が擁立した室町幕府第15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)と織田信長との関係が悪化。

武田信玄

武田信玄

足利義昭は武田信玄をはじめとする有力大名に織田信長討伐を呼びかけたのです。こうした経緯から、武田信玄は西上作戦を実行することになります。

このとき織田信長は、武田信玄と同じく足利義昭の呼びかけに応えた近江国(現在の滋賀県)の「浅井長政」(あざいながまさ)、越前国(現在の福井県北東部)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)と戦っていたため武田信玄の相手をする余裕はありませんでした。武田信玄軍との直接対決は、徳川家康が担うこととなったのです。

二俣城の戦いの勃発

破竹の勢いで遠江国を攻める武田軍

1572年(元亀3年)10月3日、武田信玄は徳川家康の所領である遠江国へ侵攻。腹心の「馬場信春」(ばばのぶはる)に5,000人の兵を付けて「只来城」(ただらいじょう:静岡県浜松市天竜区)を落とさせると、武田信玄自身も約22,000の軍勢を率いて、二俣城の周辺に位置する「天方城」、「飯田城」、「各和城」などを1日で陥落させ、さらに二俣城の南側にある「匂坂城」を攻め落としました。

これらの城攻めにより、徳川軍方の連絡網が遮断されます。重要拠点である「掛川城」(静岡県掛川市掛川)、「高天神城」(静岡県掛川市上土方)は孤立し、徳川家康は本城である「浜松城」(静岡県浜松市中央区)の将兵のみで二俣城に迫る武田軍と戦うことを余儀なくされたのです。

このとき、徳川家康が動員することができた軍勢はおよそ8,000人。織田信長からの援軍も望めない状況下で、武田軍を食い止めたい徳川家康は、重臣の「本多忠勝」(ほんだただかつ)・「内藤信成」(ないとうのぶなり)が率いる一隊を偵察として先行させます。徳川家康自身も約3,000人の軍勢を率いて出陣しますが、このときすでに武田軍は徳川家康の予想を超える勢いで進軍していました。

一言坂の戦いで徳川軍が敗れる

先行していた本多忠勝・内藤信成の偵察隊は武田軍の先発隊と遭遇。偵察隊はすぐさま退却するものの、武田軍は徳川軍を追撃し、一言坂(静岡県磐田市一言)で両軍が衝突することになります。

徳川家康にとっては想定外の開戦であり、多勢に無勢でもあったため徳川軍は撤退を決意し、本多忠勝と内藤信成が殿(しんがり)を務めました。徳川軍は辛くも浜松城まで撤退しますが、二俣城は武田軍に包囲されてしまったのです。

2ヵ月近く持ちこたえた二俣城

二俣城

二俣城

二俣城は、天竜川と二俣川に挟まれた丘陵地にあり、ふたつの川が天然の堀となっている堅牢な城でした。城を守る武将は徳川家家臣の「中根正照」(なかねまさてる)、副将は「青木貞治」(あおきさだはる)。

城兵の数は1,200人ほどだったと伝えられています。武田軍からは降伏するよう勧告されますが、中根正照は、徳川家康とその同盟者である織田信長からの援軍に望みを持ってこれを拒否。

武田軍側では馬場信春の一軍も合流し、27,000もの兵力による攻撃で二俣城を陥落させることにしたのです。天竜川と二俣川を天然の堀として持つ二俣城を攻めるには、北東側の大手口を進むしかありません。

しかし、大手口は急な坂道になっており、攻め上ろうとすると二俣城側からの猛攻を受けたため、武田軍が攻めあぐねている間に城を包囲してから2ヵ月近くが経ってしまいました。

水の手を断たれて二俣城が陥落

武田信玄は力攻めで二俣城を落とすことを断念し、水の手(城などへ飲用に引く水)を断つ方法を用いることにします。二俣城には井戸がなく、天竜川に面した断崖に井楼(せいろう:木材を井の字形に組んだやぐら)を設けて、釣瓶(つるべ)で水を汲み上げていたのです。

そこで武田信玄は、大量の筏(いかだ)を作らせて天竜川の上流から流し、井楼の柱に激突させました。この衝撃で井楼の柱は折れて崩れ落ち、二俣城の水の手は断たれてしまいます。

二俣城では、万が一の事態に備えて雨水を溜めるなどの対策をしていましたが、籠城する1,200人もの人数がいつまでも耐えしのげるはずがなく、中根正照はついに降伏して開城。中根正照は浜松城へと逃れ、二俣城は武田軍に明け渡されたのです。

二俣城の戦いその後

浜松城

浜松城

一言坂の戦いに次いで二俣城の戦いでも武田信玄が勝利。徳川家康の権威は下がり、徳川氏と武田氏のどちらに付くべきか様子を窺っていた飯尾氏、神尾氏、奥山氏、天野氏、貫名氏(ぬきなし)などの地侍(じざむらい:どの戦国大名にも従っていない武士)は武田信玄に仕えると決め、その後、武田信玄の家臣として活躍します。

圧倒的優位に立った武田信玄は、徳川家康の居城である浜松城を次の標的に定めました。徳川家康と武田信玄の対立は、このあと1572年(元亀3年)12月22日の「三方ヶ原の戦い」へとつながっていきます。

二俣城の戦いをSNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「室町時代」の記事を読む


織田信長とランチェスター戦略

織田信長とランチェスター戦略
1560年(永禄3年)5月19日早朝に起きた「桶狭間の戦い」は、戦国史を揺るがす転換期のひとつとして誰もが知る戦いです。20代半ばの「織田信長」が数千騎の兵で、大軍を率いる「今川義元」軍に戦いを挑み見事、大勝利。この勝利には「奇襲作戦が功を奏した」、「悪天候が味方した」、「偶然の勝利だ」と多くの意見が交わされます。しかし、意外にも現在のビジネスマーケティングの手法「ランチェスター戦略」が活用されている面もあるのです。このランチェスター戦略(人・物・情報の集中戦略)が、織田信長とどのようにかかわるのかを解説していきます。

織田信長とランチェスター戦略

室町幕府とは

室町幕府とは
「室町幕府」は、1338年(暦応元年)に、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)によって京都に樹立された武家政権です。鎌倉幕府の政策を踏襲しつつ、各国の支配を一任した守護大名の設置や、明(現在の中国)との日明貿易などにより、3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の時代に最盛期を迎えます。現代日本における美意識の源とも言える、東山文化の発達なども踏まえて、約240年間にわたる室町幕府について、ご紹介します。

室町幕府とは

永享の乱

永享の乱
「永享の乱」(えいきょうのらん)は、1438年(永享10年)に関東で起こった戦乱です。この戦は「鎌倉公方」(かまくらくぼう:室町幕府が設置した鎌倉府の長官)であった「足利持氏」(あしかがもちうじ)と「関東管領」(かんとうかんれい:鎌倉公方を補佐する役職)であった「上杉憲実」(うえすぎのりざね)との直接対決となりました。永享の乱は京都に置かれていた室町幕府の6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)と足利持氏との対立が原因で起こったと言われています。永享の乱が、どのような戦乱だったのか詳しくご紹介します。

永享の乱

享徳の乱

享徳の乱
「享徳の乱」(きょうとくのらん)は1467年(応仁元年)から11年間にわたる「応仁の乱」(おうにんのらん)に先駆けて、関東で起こった戦乱です。戦いは断続的に28年間続き、関東はそのまま戦国時代に突入しました。この戦乱の発端は、その前段階に起こった「永享の乱」(えいきょうのらん)にあります。 永享の乱が起こった背景には「鎌倉公方」(かまくらくぼう:室町幕府の組織[鎌倉府]のトップで関東地方を統治する)と「関東管領」(かんとうかんれい:鎌倉公方の補佐役)の対立、そして鎌倉公方と室町幕府の将軍との対立という複雑な歴史的背景が大きくかかわっています。今回は、永享の乱をきっかけとして起こった享徳の乱についてご紹介します。

享徳の乱

長享の乱

長享の乱
「長享の乱」(ちょうきょうのらん)が起こったのは、1487年(長享元年)です。そのきっかけは、京都を舞台に10年間続いた「応仁の乱」(おうにんのらん)によって室町幕府は疲弊し、関東の支配が行き届かなくなったことにありました。今回は、18年もの長い間続いた長享の乱についてご紹介します。

長享の乱

応仁の乱

応仁の乱
室町幕府が衰退した理由とも言われる「応仁の乱」。11年という長い争いにより、戦国時代へと続くきっかけとなった応仁の乱はなぜ起こったのでしょうか。 室町幕府の悲劇とも言われている応仁の乱が起きたきっかけや、戦国時代の幕開けまでの流れなど、室町時代に起こった応仁の乱について解説します。

応仁の乱

川中島の戦い

川中島の戦い
「川中島の戦い」とは、1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)の12年間、5回に亘る伝説の合戦の総称です。宿敵である甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、北信濃の支配権を巡って争いましたが、長い戦いにもかかわらず勝敗はついていません。 1561年(永禄4年)の第4次合戦の激戦が広く知られているため、その戦場となった地名から、他の場所で行なわれた戦いも含めて川中島の戦いと呼ばれていますが、一般的には川中島の戦いと言ったときには、第4次合戦を指します。

川中島の戦い

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い
1560年(永禄3年)5月19日、日本の歴史を動かす大きな合戦が起こりました。「桶狭間の戦い」です。27歳の織田信長が4,000人ばかりの兵を味方に、2万5千人もの今川義元軍に戦いを挑み、勝利しました。その歴史的な合戦には、世代を通じて胸が熱くなるドラマがあります。このような歴史的瞬間が今もなお語り継がれるのは、それを記録する人物がいたからです。その人物の名は「大田牛一」(おおたぎゅういち)。彼は、織田信長の家臣でした。最も身近な距離で、織田信長を知ることができた人物が書きつづった記録「信長公記」。織田信長が天下統一への切符を手に入れた軌跡と今川義元の敗因はどのようなものだったのでしょうか。今、「信長公記」によって桶狭間の戦いの全貌が明かされます。 これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。 どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

桶狭間の戦い

船岡山合戦

船岡山合戦
「船岡山合戦」(ふなおかやまがっせん)は、1511年(永正8年)8月に京都の船岡山周辺で起こった合戦です。船岡山は京都市北区紫野北船岡町にある標高111.7mの小さな山で、清少納言が「岡は船岡」と「枕草子」(まくらのそうし)に記していることでも知られています。船岡山合戦は、室町幕府の「管領」(かんれい:将軍を補佐する幕臣の最高職)である「細川政元」(ほそかわまさもと)が亡くなったあとの細川家の家督争いと、将軍の擁立争いをめぐる対立の中で起こった戦いです。今回はこの船岡山合戦が起こった理由から終結までをご紹介します。

船岡山合戦

注目ワード
注目ワード