「二俣城の戦い」(ふたまたじょうのたたかい)とは、1572年(元亀3年)に起こった「徳川家康」軍と「武田信玄」軍による「二俣城」(静岡県浜松市天竜区)を巡る攻防戦です。 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄は、徳川家康・「織田信長」打倒のために挙兵。およそ27,000の大軍勢を率いて徳川家康の所領である遠江国(現在の静岡県西部)・三河国(現在の愛知県東部)への侵攻を開始します。これが世に言う武田信玄の「西上作戦」(せいじょうさくせん)です。二俣城の戦いは西上作戦における戦いのひとつであり、徳川家康最大の敗戦とも言われる「三方ヶ原の戦い」の前哨戦(ぜんしょうせん)にあたります。二俣城の戦いとはどのような戦いだったのでしょうか。当時の歴史的背景も交えて探っていきます。
徳川家康・織田信長と、武田信玄との関係に亀裂が入ったのは、1571年(元亀2年)の織田信長による「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)の焼き討ちであると言われています。
織田信長側にどのような理由があったにせよ、自身も仏門に入っていた武田信玄にとっては到底容認することはできませんでした。さらにその頃、織田信長が擁立した室町幕府第15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)と織田信長との関係が悪化。
足利義昭は武田信玄をはじめとする有力大名に織田信長討伐を呼びかけたのです。こうした経緯から、武田信玄は西上作戦を実行することになります。
このとき織田信長は、武田信玄と同じく足利義昭の呼びかけに応えた近江国(現在の滋賀県)の「浅井長政」(あざいながまさ)、越前国(現在の福井県北東部)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)と戦っていたため武田信玄の相手をする余裕はありませんでした。武田信玄軍との直接対決は、徳川家康が担うこととなったのです。
1572年(元亀3年)10月3日、武田信玄は徳川家康の所領である遠江国へ侵攻。腹心の「馬場信春」(ばばのぶはる)に5,000人の兵を付けて「只来城」(ただらいじょう:静岡県浜松市天竜区)を落とさせると、武田信玄自身も約22,000の軍勢を率いて、二俣城の周辺に位置する「天方城」、「飯田城」、「各和城」などを1日で陥落させ、さらに二俣城の南側にある「匂坂城」を攻め落としました。
これらの城攻めにより、徳川軍方の連絡網が遮断されます。重要拠点である「掛川城」(静岡県掛川市掛川)、「高天神城」(静岡県掛川市上土方)は孤立し、徳川家康は本城である「浜松城」(静岡県浜松市中央区)の将兵のみで二俣城に迫る武田軍と戦うことを余儀なくされたのです。
このとき、徳川家康が動員することができた軍勢はおよそ8,000人。織田信長からの援軍も望めない状況下で、武田軍を食い止めたい徳川家康は、重臣の「本多忠勝」(ほんだただかつ)・「内藤信成」(ないとうのぶなり)が率いる一隊を偵察として先行させます。徳川家康自身も約3,000人の軍勢を率いて出陣しますが、このときすでに武田軍は徳川家康の予想を超える勢いで進軍していました。
先行していた本多忠勝・内藤信成の偵察隊は武田軍の先発隊と遭遇。偵察隊はすぐさま退却するものの、武田軍は徳川軍を追撃し、一言坂(静岡県磐田市一言)で両軍が衝突することになります。
徳川家康にとっては想定外の開戦であり、多勢に無勢でもあったため徳川軍は撤退を決意し、本多忠勝と内藤信成が殿(しんがり)を務めました。徳川軍は辛くも浜松城まで撤退しますが、二俣城は武田軍に包囲されてしまったのです。
二俣城は、天竜川と二俣川に挟まれた丘陵地にあり、ふたつの川が天然の堀となっている堅牢な城でした。城を守る武将は徳川家家臣の「中根正照」(なかねまさてる)、副将は「青木貞治」(あおきさだはる)。
城兵の数は1,200人ほどだったと伝えられています。武田軍からは降伏するよう勧告されますが、中根正照は、徳川家康とその同盟者である織田信長からの援軍に望みを持ってこれを拒否。
武田軍側では馬場信春の一軍も合流し、27,000もの兵力による攻撃で二俣城を陥落させることにしたのです。天竜川と二俣川を天然の堀として持つ二俣城を攻めるには、北東側の大手口を進むしかありません。
しかし、大手口は急な坂道になっており、攻め上ろうとすると二俣城側からの猛攻を受けたため、武田軍が攻めあぐねている間に城を包囲してから2ヵ月近くが経ってしまいました。
武田信玄は力攻めで二俣城を落とすことを断念し、水の手(城などへ飲用に引く水)を断つ方法を用いることにします。二俣城には井戸がなく、天竜川に面した断崖に井楼(せいろう:木材を井の字形に組んだやぐら)を設けて、釣瓶(つるべ)で水を汲み上げていたのです。
そこで武田信玄は、大量の筏(いかだ)を作らせて天竜川の上流から流し、井楼の柱に激突させました。この衝撃で井楼の柱は折れて崩れ落ち、二俣城の水の手は断たれてしまいます。
二俣城では、万が一の事態に備えて雨水を溜めるなどの対策をしていましたが、籠城する1,200人もの人数がいつまでも耐えしのげるはずがなく、中根正照はついに降伏して開城。中根正照は浜松城へと逃れ、二俣城は武田軍に明け渡されたのです。
一言坂の戦いに次いで二俣城の戦いでも武田信玄が勝利。徳川家康の権威は下がり、徳川氏と武田氏のどちらに付くべきか様子を窺っていた飯尾氏、神尾氏、奥山氏、天野氏、貫名氏(ぬきなし)などの地侍(じざむらい:どの戦国大名にも従っていない武士)は武田信玄に仕えると決め、その後、武田信玄の家臣として活躍します。
圧倒的優位に立った武田信玄は、徳川家康の居城である浜松城を次の標的に定めました。徳川家康と武田信玄の対立は、このあと1572年(元亀3年)12月22日の「三方ヶ原の戦い」へとつながっていきます。