「小西行長」(こにしゆきなが)は、生まれは商人ながらも若いときから武将として活躍した人物。その才能を見込まれて、「織田信長」や「豊臣秀吉」へ仕えます。豊臣秀吉の家臣だったころは水軍を率いて活躍したことから、「海の司令官」との通り名もありました。肥後(現在の熊本県)の大名となり、長年豊臣秀吉から厚い信頼を得ていましたが、最期は関ヶ原の戦いで西軍につき処刑。キリシタン大名・小西行長の生涯に迫ります。
小西行長の人生において、大きな影響を及ぼしたのが日本に入ってきた「キリスト教」思想です。私財を投じて病院や孤児院を作るなど、生涯を通じて常に弱者への社会福祉を忘れませんでした。
小西行長は、薬種商であった「小西隆佐」(こにしりゅうさ)の次男として生まれました。幼少期にキリスト教の洗礼を受け、「アゴスチイノ」と言う洗礼名も授かっています。
岡山にて商人家へ養子となったあと、活躍を買われて岡山城主である「宇喜多直家」(うきたなおいえ)に仕えます。
1580年(天正8年)には、豊臣秀吉の部下となりました。主な業務は豊臣秀吉と各大名の間に入る「取次」です。
しかしただ伝えるだけではなく、命令意図を汲んで各部署に相談するなど、ある程度動くことができる権限をもっていました。
1583年(天正11年)からは、水軍の指揮官に就任。海の司令官とも呼ばれるようになり、活躍を多くの人に認められていたと言えます。
豊臣秀吉は小西行長の活躍を評価し、球磨郡を除く肥後(現在の熊本県)の半分を与えます。規模としては約146,000石であり、商人出身としては大きな出世でした。このときもう半分を与えられたのが「加藤清正」(かとうきよまさ)。のちに対立へと発展する相手です。
肥後半分の大名となった小西行長は、入国した翌年である1589年(天正17年)に、新たに宇土城(熊本県宇土市)を築城。元来の宇土城(西岡台)が山城であり、規模も大きくなかったために改めて築いたとされています。
また水軍としての活躍があったこともあり、宇土城の本丸北側には運河が通るように設計し、有明海の船が往来するという構造にしました。他にも城下町が整備され、商工業者が住む場所や物流拠点が設けられています。
新たな宇土城を建築する際、一揆が勃発。これは小西行長が「天草五人衆」(あまくさごにんしゅう)へ宇土城建設を命令したことがきっかけと言われています。
彼ら「天草五人衆」も同じく豊臣秀吉より領地を与えられていたことから「同じ立場である小西行長からなぜ命令を受けないといけないのか」と反抗されてしまったのです。
また「天草の一揆」収束にあたり加藤清正が無理やり参加してきたため、これ以降ふたりで攻略を進めていくことになります。加藤清正が加わったことで、一揆は急速に鎮圧されました。
出世も果たして順調だった小西行長の人生において、風向きが変わるきっかけとなったのが豊臣秀吉の「朝鮮出兵」です。
この作戦において、小西行長は一番隊の隊長を任命されます。そしてプサンとソウルを難なく制圧しました。朝鮮軍はピョンヤンへ撤退し、あとを追う豊臣勢の前に明(当時の中国)の援軍が到着。不利を悟った小西行長は「石田三成」とともに、水面下で朝鮮との講和を締結します。
しかしこの講和締結が豊臣秀吉の怒りにふれてしまい、死刑を宣告されました。ですが、重鎮の「前田利家」(まえだとしいえ)や「淀殿」(よどどの:豊臣秀吉の側室)らの取り成しによって事なきを得ることになったのです。
豊臣秀吉の死後、「徳川家康」と石田三成の間で「関ヶ原の戦い」が起こり、小西行長は西軍(石田三成軍)として参戦。
西軍が敗北すると、小西行長は「伊吹山」(いぶきやま:滋賀県米原市)へ逃げ込みます。キリシタンである小西行長は自ら切腹して死ぬことを選ばず、落ち武者狩りに出会うと、自分を捕えて徳川家康のもとへ連れて行くように命令。
捕まったのちは、後日捕らえられた石田三成、「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)とともに斬首にて処刑されました。
小西行長を語る上で欠かせないのは、対立関係にあった「加藤清正」です。仲が良くなかった理由のひとつに、信仰の違いがあり、小西行長はキリシタンであった一方、加藤清正は法華宗の檀家でした。
さらに朝鮮出兵の際、加藤清正は自分が担当する攻略ルートが難しいと判断し、もともと小西行長が担当していた平安道(朝鮮の主要都市)への攻略を志願。これも両者の関係が悪化したきっかけと言われています。
ふたりの関係は関ヶ原の戦いにも影響しました。西軍として小西行長が出陣したところ、加藤清正が「宇土城」を包囲してしまったのです。小西行長は攻撃に耐えていたものの、最終的には1600年(慶長5年)10月に降伏し、城を明け渡すことになります。
商人から武士への転身を成功させた小西行長ですから、祖となる人物は特にいません。ここでは関連する親族を3名解説します。
「小西隆佐」は「小西行正」(こにしゆきまさ)の子どもとして生まれ、小西行長の父にあたります。薬種商でしたが、商人だけで生涯を終えた訳ではなく、堺代官や行政官として豊臣秀吉の政治にかかわっていました。
また、小西隆佐は京都に訪れた「フランシスコ・ザビエル」と直接会い、キリスト教の洗礼を受けて「ジョウシン」という洗礼名を取得。宣教師を支援しながら様々な職業の人物と交流を図っています。
小西行長は生涯を通じ弱者救済のため活動していましたが、父親である小西隆佐のキリシタンとしての活動を見ていたことが影響していると考えられています。
「小西如清」は小西隆佐の長男にあたり、小西行長にとっては兄にあたります。小西行長と同じく薬種商を営んでおり、キリスト教信者でもありました。しかし、もともとは法華宗徒で1579年(天正7年)頃に改宗。「ベント」と言う洗礼名を受けましたが、「ドム・ジョアシーム・ルーイ」とも名乗っています。
父親である小西隆佐が亡くなったあとは仕事を受け継ぎ、堺代官や行政官として豊臣秀吉の政治に尽力していました。
「おたあジュリア」は、小西行長にひきとられて育った女性で、朝鮮生まれである以外、詳しい記録は残っていません。
豊臣秀吉による命令で朝鮮に出兵した小西行長が、戦で生活に苦しんでいた貴族の少女を連れて帰ったと考えられています。
おたあジュリアは、小西行長が弱者のために設立した施薬院(貧しい人々を世話する施設のこと)で育ちました。とても慈悲深く、深い信仰心をもつ人物で、キリシタン達からは「ドーニャ・ジュリア」という名前で呼ばれていたとされています。
小西行長が関ヶ原の戦いで敗れた際、殺されることなく、徳川家康の侍女として召し上げられます。キリシタン迫害が始まった際にも、徳川家康が命を奪うことはありませんでした。
理由は諸説ありますが、「キリシタンから改宗させて側室へと迎え入れようとしていた」や「スパイとして島流しにした」などの説が伝わっています。