戦国時代に活躍した「山中鹿之助」(やまなかしかのすけ)とは、「山中幸盛」(やまなかゆきもり)の通称です。尼子家(あまごけ:山陰地方で活躍した戦国大名)再興のために尽力し、「毛利元就」(もうりもとなり)の山陰地方侵略に対して、勇猛に対抗しました。しかしその願いがかなわぬまま、悲劇の最期を遂げてしまったのです。忠誠心が強い山中鹿之助の生涯は、江戸時代から明治時代にかけて、講釈場(こうしゃくば:講談や軍談の解釈をする寄席)で人気を博していました。山中鹿之助の生涯や逸話などについてご紹介します。
山中鹿之助についての確実な史料が残っているのは後半生からです。それ以前の前半生については定かでありません。とはいえ人気の武将ということもあり、不確実ながらもいくつかの説はあるので、ここではそれらの説を含めて山中鹿之助の生涯をご紹介します。
1566年(永禄9年)、尼子氏の居城だった月山富田城が、毛利元就との1年余りに亘る攻防の末に降伏して落城。城主の「尼子義久」(あまごよしひさ)はその弟2人と共に、毛利元就の虜囚となりました。
囚われの身とはいえ、尼子義久らは毛利家での好待遇に満足し、尼子家再興の志を持つことはなかったと言われています。
もともと尼子氏は、近江源氏である佐々木氏の一族から出て、近江国犬上郡尼子郷(おうみのくにいぬかみぐんあまごごう:現在の滋賀県甲良町)へ移り住んだ一族。
佐々木氏は鎌倉時代の初期から出雲国(現在の島根県東部)の守護職を務めていました。室町時代に「佐々木道誉」(ささきどうよ)の曾孫にあたる「尼子持久」(あまごもちひさ)が、守護代として月山富田城に入ったのです。
しかし尼子持久の子「尼子清定」(あまごきよさだ)の代になると、尼子氏は一時的に守護代から解任。理由は、あまり良い守護代ではなかったためと言われています。
その後、尼子清定の子の「尼子経久」(あまごつねひさ)が、弟の「尼子久幸」(あまごひさゆき)や山中鹿之助の祖父「山中勘兵衛勝重」(やまなかかんべえかつしげ)と共に月山富田城を奪還し、尼子家を再興。尼子経久は出雲国など11ヵ国を支配して尼子氏最盛期を迎えます。なおこの頃、毛利元就は尼子氏の前衛部隊として従っていました。
22歳で月山富田城を追われた山中鹿之助は、京都で浪人生活を送っていました。
その頃、京都の公家や学僧などの知識人達との交流を深め、彼らの間で評判となって世間に山中鹿之助の名が知られるようになります。
ある日、山中鹿之助は京都の寺で「尼子勝久」(あまごかつひさ)と出会いました。尼子勝久は、尼子経久の孫にあたり、父は新宮党(しんぐうとう;尼子家の精鋭部隊)の党首「尼子国久」(あまごくにひさ)です。
当時、僧侶であった尼子勝久は還俗(げんぞく:僧籍を離れて俗人にかえること)し、尼子勝久と名乗るようになっていました。こうして山中鹿之助は尼子勝久を当主とし、尼子家再興の旗を揚げることになったのです。
出雲での山中鹿之助の動きに気づいた毛利軍は、九州から急いで戻り、14,000の兵で月山富田城へ救援に向かいます。対する山中鹿之助が率いる尼子軍は7,000人で、月山富田城の南に位置する布部中山に陣を敷きました。
果敢に攻めるも毛利軍との兵力の差は著しく、尼子軍は敗退。尼子軍の主だった武将達が次々と討死していくなか、山中鹿之助は単身で脱出に成功します。
布部中山で敗退した山中鹿之助は、小城を転々としてゲリラ活動を行い、毛利元就を悩ませました。のちに、毛利元就の次男「吉川元春」(きっかわもとはる)に捕えられるものの、隙をみて逃走。但馬国(現在の兵庫県北部)に潜伏し、尼子勝久と共に再起を図ります。
1577年(天正5年)、山中鹿之助33歳(または38歳)のときに、「織田信長」が「毛利輝元」(もうりてるもと)の勢力である中国地方へ進攻。「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)が総大将となり、中国地方へ進軍します。
山中鹿之助ら尼子家再興軍のうち3,000の兵は、織田軍の先陣として上月城(こうづきじょう:現在の兵庫県佐用郡)にて陣をかまえました。
織田信長と言えども毛利軍との戦闘は厳しく、要衝の地だった上月城はまたたく間に毛利軍30,000に取り囲まれます。羽柴秀吉は10,000の兵で救援に向かいますが、毛利軍30,000の前ではどうすることもできず織田信長の命を受け撤退を余儀なくされました。
上月城を目の前にして、尼子軍を見殺しにせざるを得なかった羽柴秀吉は、「鹿之助を捨てさせ給いしは、西国の果迄(はてまで)も御名を流し給う口惜しさ(くちおしさ)」という言葉を残しました。
これは「山中鹿之助を見捨てたということで、織田信長の悪名が九州まで流れてしまうのが悔しい」といった意味です。
当時、山中鹿之助の知名度がいかに高かったことが分かる逸話と言えます。
織田軍に見捨てられてしまった上月城の尼子軍は孤立無援となってしまい、毛利軍に降伏する以外に道はありません。降伏の条件により尼子勝久は切腹。山中鹿之助は捕虜となりました。
このとき、山中鹿之助は、毛利元就亡きあとの当主・毛利輝元や吉川元春、毛利元就の三男「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)のいずれかと刺し違えようとしていたと言われていますが、吉川元春が山中鹿之助を暗殺したため、いずれもかないませんでした。
なお、山中鹿之助が吉川元春の配下に暗殺されたのは、備中国(現在の岡山県西部)の甲部川(こうべがわ)と成羽川(なりわがわ)の合流地点にある渡し場だったと言われています。
山中鹿之助は尼子家臣下である山中家の生まれですが、もともとは山中家も尼子一族。山中家の祖である「山中幸久」(やまなかゆきひさ)は尼子清定の弟にあたり、山中鹿之助は山中幸久のひ孫です。ここでは山中鹿之助の親族や子孫についてご紹介します。
山中家は、山中鹿之助の父・山中満幸の代に、譜代の重臣となります。山中満幸は、尼子経久と「尼子晴久」(あまごはるひさ)の2代に仕え、智勇に優れた武将でした。しかし、山中鹿之助が生まれた翌年に死去。
なお、山中鹿之助は山中満幸の次男として生まれましたが、病弱な兄に代わって家督を継ぐことになります。
亀井秀綱は尼子家の重臣で、寺社を統率する立場にありました。出雲国の宗教勢力とやり取りした書状が多く残っています。
山中鹿之助の妻は、この亀井秀綱の娘になります。また、亀井秀綱の次女は山中鹿之助の養女となり、尼子家臣の「湯新十郎」(ゆしんじゅうろう)に嫁ぎました。
この湯新十郎が、のちの「亀井茲矩」(かめいこれのり)です。亀井茲矩は、山中鹿之助が上月城に立てこもっているときに出雲の兵を預かり、羽柴秀吉に仕えたのち、因幡国(現在の鳥取県東部)鹿野藩初代藩主となります。
山中鹿之助の悲願である尼子家再興はかなわず、悲劇の最期を遂げました。しかし、実は山中鹿之介の子孫が残っていたと言われています。それが鴻池直文です。
鴻池直文は、江戸時代に日本最大の財閥となった鴻池財閥の始祖とされている人物。当初、その出自ゆえに害が及ぶ恐れがあったため、子孫であることを秘密にしていたと言われています。
戦国の世が過ぎて江戸時代になると、鴻池直文は清酒の製造に成功。造酒屋として身を立てます。当時の酒はすべて「にごり酒」(どぶろく)でしたが、鴻池直文が醸造中の酒の中にたまたま灰桶を落としたところ、にごっていた酒が澄み切ったのです。
この澄み切った酒を「清酒」として売り出したところ大人気になりました。その後、鴻池直文は醸造業や海運業を手掛け、大財閥である鴻池家の礎となったのです。
山中鹿之助は人気の高い武将として知られますが、評価が分かれるのも事実。ここでは山中鹿之助に対する後世の評価についてご紹介します。
16世紀末に成立したとされる世間話集「義残後覚」(ぎざんこうかく)によると、山中鹿之助は「楠木正成より勝る」と当時の人々から讃えられていたと言います。
楠木正成は、後醍醐天皇の忠臣です。「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)に敗北し、後醍醐天皇への忠誠を誓って自刃。
一方の山中鹿之助は、負けても降伏して生き残りました。敗れても不死鳥のようによみがえり、尼子家再興のために働いた姿こそ本当の忠臣だという見方をする人も一定数います。
賛辞の言葉の多い山中鹿之助ですが、一方で「死にざまのいさぎよさがない」という評価もあります。死にざまの良さこそが武士だとする意見に従えば、しぶとく生き残って最後の最後に暗殺されてしまう山中鹿之助の死に方は、いさぎよさがないと見られています。
山中鹿之助の生きざまは、後世の江戸時代においても賛辞を受けていました。
「嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る」
「七言絶句」(しちごんぜっく:1句7言からなる近代詩)を用いた漢詩「山中幸盛」を残しました。これは、「勇敢なことで世に知られる山中幸盛は、鹿という名前であるものの鹿と呼ぶ者はいないだろう。山中幸盛は戦国の世の麒麟である」といった意味。
麒麟は、中国神話における伝説の動物。王が仁政を布く際に現れるとされ、才能のある子どもを麒麟児と呼ぶことがあります。山中鹿之助は数々の武将のなかから突出した才を持つ人物だと褒めているのです。
「ここ数百年の史上に徴するも、本統の逆舞台に臨んで、従容として事を処理したる者は殆ど皆無だ。先づ有ると言うならば、山中鹿介と大石良雄であろう」
勝海舟が晩年に残した語録「氷川清話」(ひかわせいわ)にある言葉で、「ここ500年の間の歴史上で、逆境に立たされながら落ち着いて始末を付けられる者を求めても、俺の気に入る者は全くいない。あえて挙げるとしたら、山中鹿之助と大石良雄くらいのものだろう」といった意味です。
人気を博した悲運の名将だけに、山中鹿之助には数々の名言や逸話が残されています。
三日月に尼子家再興を祈願したときの言葉で、このエピソードは戦前の教科書にも掲載されたほど。三日月に向かって尼子家再興を祈り、「尼子家再興のためならどんな困難にも立ち向かう」という意思を込めて発した言葉だと考えられています。
なお、山中鹿之助は月に対する縁の深さを感じ、仏法守護の善神月天子(ぜんしんがってんし)を信仰していました。生まれた夜が満月、また16歳(または21歳)で兄から家督を譲られたのも新月の夜だったからです。
山中鹿之助が祈った三日月は、三笠山城 (みかさやまじょう:島根県安来市)にかかる月だったと言われています。
1565年(永禄8年)から始まった毛利氏と尼子氏の月山富田城攻防戦の際、当時21歳(または26歳)だった山中鹿之助の名はすでに、敵方へも知れ渡っていました。
毛利家の武将「益田越中守藤包」(ますだえっちゅうのかみふじかね)の家来・品川大膳は、山中鹿之介を討って名を挙げようと付け狙います。
2人は遭遇して一騎打ちに。死闘の末に相手を打ち負かしたのは山中鹿之助で、2人が戦ったとされる富田川の川中島(現在の洞貫川[どうかんがわ]の川べり)には、石碑が建っています。
なお、品川大膳は山中鹿之助に勝つため、自身の名を「棫木狼介勝盛」(たらぎおおかみのすけかつもり)に改名していました。この名前には、棫(たら)の木から新芽が出る頃になると鹿の角が生え代わることと、自分は鹿を捕食する狼であると言う意味が込められていると推測されています。
江戸時代中期に成立し、戦国時代の西国を舞台とする武家大名の興亡を描いた「陰徳太平記」(いんとくたいへいき)にも逸話が残されています。
山中鹿之助の盟友「秋上伊織介」(あきがみいおりのすけ)という武将が、毛利氏に降伏することに。山中鹿之助は、秋上伊織介と別れの杯を交わし、「侍の身は渡り者であるから仕方がないことであり、恨みは残さない」と伝えました。秋上伊織介の父親が降伏したので、やむをえないと考えたのです。
また、当時は下剋上により新しい大名家が次々と興っていた時代で、侍がそのたびに主を替えていくのは時代の流れでもありました。
そんな風潮がありながらも、生涯を通じて尼子家再興を願い、去っていく盟友には惜別の情をかける山中鹿之助の人柄がしのばれます。
山中鹿之助の墓所は日本全国にいくつかありますが、そのうちの3ヵ所をご紹介します。
ひとつは現在の岡山県高梁市で、山中鹿之助が暗殺された場所とされている阿井の渡し場があった場所です。1713年(正徳3年)に、山中鹿之助の死を悼んだ松山藩士が建立したと言われています。
山中鹿之助は、暗殺されたあとに首を切り落とされ、その首は毛利輝元がいる「松山城」(現在の岡山県高梁市)へ送られました。
首がなくなった遺骸を葬ったのは、「観泉寺」(かんぜんじ:現在の岡山県高梁市)の和尚だったと言われています。葬られた遺骸は、のちに掘り起こされ、観泉寺境内に改葬されました。
山中鹿之助の首は毛利輝元のもとに送られて首実検(くびじっけん:戦場で討ち取った敵方の首を判定する作業)を受け、さらに鞆の浦(現在の広島県福島市)にいた「足利義昭」(あしかがよしあき:室町幕府最後の将軍)のもとへ送られました。
このとき足利義昭が本陣を敷いていた静観寺山門前に、山中鹿之助の首塚があります。