戦国武将一覧

大内義隆の歴史
/ホームメイト

大内義隆の歴史 大内義隆の歴史
文字サイズ

「大内義隆」は戦国時代の武将で、「周防国」(現在の山口県東部)の在庁官人だった大内氏の第16代当主です。22歳で家督を相続し、従二位(じゅにい)の地位まで昇りつめた西国一の戦国大名として知られています。「毛利元就」を傘下におさめていたこともあるほど力を持っていた大内義隆ですが、重臣である武断派の「陶隆房」(すえたかふさ)の謀反によって自害に追い込まれた悲運の武将です。わずか45年でその幕を閉じた大内義隆の歴史についてご紹介します。

大内義隆の生涯

大内義隆は、1507年(永正4年)11月15日に大内氏の第15代当主「大内義興」(おおうちよしおき)の嫡男として誕生しました。母は長門守護代を務めていた「内藤弘矩」(ないとうひろのり)の娘で、大内義興の正室・「東向殿」(ひがしむきどの)になります。

田手畷の戦い

大内義隆

大内義隆

1528年(享禄元年)12月に父・大内義興が亡くなり、大内義隆は22歳で家督を継ぎます。

その2年後の1530年(享禄3年)、九州北部の覇権をめぐり肥前国(現在の佐賀県、長崎県)の大名・「少弐氏」(しょうにし)と大内義隆が対立。

「田手畷の戦い」(たでなわてのたたかい)と言う戦へ発展したのです。

大内義隆は北九州沿岸を平定して、大陸貿易の利権を掌握するなど戦いを有利に進めていたのですが、少弐氏の重臣「龍造寺家兼」(りゅうぞうじいえかね)の反攻にあって大敗を喫します。

吉田郡山城の戦い

当時、大内義隆の傘下にあった戦国時代最高の智将とも言われる、「毛利元就」率いる毛利氏と「尼子晴久」率いる尼子氏との間で争いが勃発。安芸国吉田(現在の広島県安芸高田市)の「吉田郡山城」周辺で戦が繰り広げられました。これが吉田郡山城の戦いです。

1540年(天文9年)6月に始まり1541年(天文10年)1月までの約半年間に及んだこの戦は、大内軍が毛利軍に救援を送り、尼子軍が撤退するという形で幕を閉じました。その後大内義隆は尼子方の安芸武田氏と友田氏を滅ぼし、安芸国を完全に勢力下に置いたと言われています。

大寧寺の変(たいねいじのへん)

大寧寺の変は、1551年(天文20年)に大内義隆が、重臣であった陶隆房の謀反により自害に追い込まれた政変で、今で言うところのクーデターです。

発端は1542年(天文11年)、尼子晴久に大敗した「月山富田城の戦い」(がっさんとだじょうのたたかい)でした。大内義隆は戦いに敗れたうえに、寵愛していた養嗣子の「大内晴持」(おおうちはるもち)が戦死。野心や政治的関心を完全に失ってしまいました。

大内義隆は政権の第一線から退き、学芸や茶会に没頭する公家さながらの生活を送り始め、文治派の「相良武任」(さがらたけとう)らを重用するようになりました。この大内義隆の行動に、大きな不満を抱いたのが陶隆房や「内藤興盛」(ないとうおきもり)などの武断派です。

やがてこの武断派は、文治派の相良武任らを敵対視するようになり、最終的に陶隆房の謀反へとつながります。この政変により西国随一の戦国大名と称された大内氏は、実質的に滅亡へと追い込まれました。

大内義隆の墓

大内義隆の墓は、「大寧寺の変」が起きた山口県長門市の「大寧寺」にあり、大内義隆と「冷泉隆豊」(れいぜいたかとよ)に関する逸話が残っています。陶隆房が挙兵し、大内義隆が居城していた山口館に到着する前日まで大内義隆は酒宴を開いていたと言われており、全くの無防備状態でした。

当然わずか1日で山口を追われることとなり、逃げ込んだのがこの大寧寺です。陶隆房の謀反には、大内家のほとんどの武将が同調したため、大内義隆の味方となった主な家臣は、この冷泉隆豊のみと言われています。

姿見の池とかぶと掛けの岩

大寧寺の敷地内には、「姿見の池」と「かぶと掛けの岩」と呼ばれる史跡があります。これは、大内義隆が大寧寺に逃げ込んだ際、寺の境内に入る前に乱れた髪を整えようとを掛けたとされる参道脇の岩と、自分の姿を見ようと覗き込んだ池と言われています。

このとき覗き込んだ池の水面に大内義隆の顔は映らなかったと言い、自らの死を悟った大内義隆は、冷泉隆豊と共に大寧寺の住職から戒名を授かり、翌日に境内で自害をしました。

大内義隆が切腹する際、介錯したのは冷泉隆豊。その後介錯を終えた冷泉隆豊は、経蔵に立て籠もって切腹し、はらわたを投げ付けたと伝えられています。このとき冷泉隆豊は39歳でした。大内義隆らの墓は本堂裏山の頂上付近にあり、冷泉隆豊をはじめ最後まで付き従った家臣達と共にこの地に眠っています。

大内義隆の逸話

この大内義隆にはいくつも逸話が残っています。特に有名なのは、キリスト教の布教で日本にやってきたフランシスコ・ザビエルとの逸話。ここではその話を中心にご紹介します。

日本で初めてクリスマスを祝った

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエルが宣教師としてキリスト教を日本に広めるために日本の鹿児島県に上陸したのは、1549年(天文18年)8月。

その後フランシスコ・ザビエルは、1550年(天文19年)8月に布教のため肥前国平戸(長崎県平戸市)に入りました。

さらにその年の11月には「周防国」(すおうのくに)山口を訪れ、山口での宣教の許可を得るため守護大名だった大内義隆に謁見します。

しかしこのときの謁見では、山口でのキリスト教宣教の許可を得ることはできませんでした。その理由は、武家の慣習を否定する内容が含まれていたことや、長い航海を経たフランシスコ・ザビエルの身なりが良くなかったためと言われています。

最初の謁見で宣教の許可を得ることに失敗したザビエルは、2度目の大内義隆との謁見には様々な献上品を用意し、見事山口での宣教の許可を得ることに成功しました。このときの献上品のなかには、当時「珍陀酒」(ちんたしゅ)と呼ばれた赤ワインもあったと言われています。

フランシスコ・ザビエルに山口でのキリスト教宣教の許可を出した大内義隆は、日本初のキリスト教会となる「大道寺」を与え、ここが布教の拠点となりました。そして大道寺にて日本における最初のクリスマスを祝ったと言われています。

絹織物の技術を導入

大内義隆は商売にも長けていたと言われています。博多織の職人を明に派遣し、絹織物の技術を持ち帰らせることで、それまで明に大差を付けられていた絹織物の品質を飛躍的に向上させました。

日本ではその後、江戸時代に養蚕が盛んになり、明治時代へ入ると生糸の輸出が日本経済の発展に大きく貢献するようになります。このように大内義隆の働きがなければ日本の歴史は変わっていたかもしれないとまで言われています。

大内義隆の歴史をSNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「戦国武将一覧」の記事を読む


山中鹿之助(山中幸盛)の歴史

山中鹿之助(山中幸盛)の歴史
戦国時代に活躍した「山中鹿之助」(やまなかしかのすけ)とは、「山中幸盛」(やまなかゆきもり)の通称です。尼子家(あまごけ:山陰地方で活躍した戦国大名)再興のために尽力し、「毛利元就」(もうりもとなり)の山陰地方侵略に対して、勇猛に対抗しました。しかしその願いがかなわぬまま、悲劇の最期を遂げてしまったのです。忠誠心が強い山中鹿之助の生涯は、江戸時代から明治時代にかけて、講釈場(こうしゃくば:講談や軍談の解釈をする寄席)で人気を博していました。山中鹿之助の生涯や逸話などについてご紹介します。

山中鹿之助(山中幸盛)の歴史

佐久間信盛の歴史

佐久間信盛の歴史
「佐久間信盛」(さくまのぶもり)は、織田家の家中でも名門佐久間宗家の嫡男。2020年(令和2年)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で「金子ノブアキ」さんが演じたことでも知られています。佐久間信盛は「織田信長」を幼いころからサポートし、戦いにおいても高い信頼を得ていました。しかしあることがきっかけで織田信長の怒りを買い、非業の最期を遂げます。この佐久間信盛の生涯や最期についてご紹介します。

佐久間信盛の歴史

北条氏政の歴史

北条氏政の歴史
「北条氏政」(ほうじょううじまさ)は、相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)を本拠として発展した戦国大名、「後北条氏」(ごほうじょうし)の4代当主です。同氏の勢力を拡大させることに尽力した北条氏政は、関東地方において、歴代当主の中で最も大きい版図を築き上げました。しかし、「豊臣秀吉」の「小田原の役」(おだわらのえき:別称[小田原征伐])により、北条氏政の代で後北条氏を滅亡させてしまうことに。そのため「愚将」と揶揄される一方で、領民に対して善政を敷いていたことから、「名君」とも評されています。北条氏政が本当はどんな人物であったのかが分かる逸話を交えつつ、その生涯についてご説明します。

北条氏政の歴史

松平忠長の歴史

松平忠長の歴史
江戸幕府3代将軍「徳川家光」と言えば、祖父である初代将軍「徳川家康」を崇拝し、江戸幕府の体制や将軍家の基盤を固めた人物。そんな徳川家光には「松平忠長」(まつだいらただなが)と言う弟がいます。徳川家光にとって、唯一の兄弟であった松平忠長ですが、徳川将軍家を悩ませる存在でもありました。一時は将軍後継として期待されるも、改易処分を下されてしまった松平忠長とは一体どのような人物だったのでしょうか。将軍の弟でありながら問題行動を連発した松平忠長の人生を見ていきます。

松平忠長の歴史

織田信雄の歴史

織田信雄の歴史
「織田信長」の息子には、「本能寺の変」で父とともに自害した「織田信忠」(おだのぶただ)と、対照的な人生を送った次男「織田信雄」(おだのぶかつ・のぶお)という武将がいます。織田信長から未来を期待されていた織田信忠に対し、織田信雄は親子の縁を切られそうになったり、2度も改易(かいえき:大名の領地・身分・家屋敷を幕府が没収し、大名としての家を断絶させてしまうこと)されたりと、織田信長の息子でありながら散々な武将人生を歩んでしまった人物です。その一方で、長生きした織田信雄は多くの子孫を残し、その血は明治維新に至るまで受け継がれていきました。さらに、そのなかには現在の皇室に繋がる家系も。後世に「愚将」と評価されてしまった織田信雄の人生を振り返りながら、織田信雄が残した子孫について見ていきます。

織田信雄の歴史

織田信行の歴史

織田信行の歴史
「織田信長」と言えば、圧倒的な力で「天下布武」(てんかふぶ:武力で天下を統一すること)を達成したイメージが強い武将です。しかし戦国武将として台頭するまでに苦戦していた時期もありました。そして、織田信長を長年苦しめていたのが実の弟である「織田信行」(おだのぶゆき)です。当初は兄弟で協力して領地経営をしていた2人ですが、次第に織田家の当主争いが勃発し、熾烈な戦いへと発展していくことに。今回は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも織田信長との兄弟バトルが話題となった織田信行について紹介します。

織田信行の歴史

豊臣秀長の歴史

豊臣秀長の歴史
農民から天下人へと昇りつめた「豊臣秀吉」には、陰で出世を支えた「豊臣秀長」(とよとみひでなが)という右腕的存在がいました。豊臣秀長は豊臣秀吉の3歳下の弟で、政務や軍事面で兄を補佐し、豊臣家の天下統一に大きく貢献した人物です。天下を目指して武力でひたすら突き進む兄の傍で、豊臣秀長は領地を守り、諸大名との間合いを取り持つなど、細やかで献身的なサポートに徹しました。豊臣秀吉にとって必要不可欠な存在だった豊臣秀長の人生を振り返り、天下人を支えた弟がどのような武将だったのか見ていきます。 天下統一という偉業を成し遂げた豊臣兄弟の奇跡を豊臣秀長の目線で描いたNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」についてご紹介します。 これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。

豊臣秀長の歴史

豊臣秀次の歴史

豊臣秀次の歴史
豊臣秀吉の死後、豊臣家は晩年に生まれた実子の「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が当主となっていましたが、もともとは、別の人物が後継者候補となっていたことをご存知でしょうか。実子に恵まれなかった豊臣秀吉には7人の養子がおり、そのなかで「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)という人物が2代目関白となり、豊臣家を相続していました。しかし、実子の豊臣秀頼が生まれたことで、豊臣家を継いだ豊臣秀次の運命は大きく変わってしまうのです。今回は、豊臣政権崩壊のきっかけとなった「秀次事件」でも知られる豊臣秀次について紹介します。

豊臣秀次の歴史

本多忠政の歴史

本多忠政の歴史
「本多忠政」(ほんだただまさ)は、三河国(現在の愛知県東部)の譜代大名「本多忠勝」(ほんだただかつ)の嫡男です。戦上手の偉大な父・本多忠勝の影に隠れがちですが、才智に優れて勇猛で、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」からの信頼も厚かった人物。桑名藩(現在の三重県)10万石、姫路藩(現在の兵庫県)15万石の藩主を務め、後世に評価される良政を行いました。本多忠政の生涯や愛刀など、本多忠政の歴史について詳しくご紹介します。

本多忠政の歴史

注目ワード
注目ワード