現在の静岡県掛川市にあった「高天神城」(たかてんじんじょう)は、戦国時代に「高天神城を制する者は遠江(とおとうみ)を制す」と言われるほど、戦略的な拠点に建てられた難攻不落の山城でした。同城を巡り、「徳川家康」と「武田信玄」(別称「武田晴信」[たけだはるのぶ])の四男「武田勝頼」(たけだかつより)が対立した「高天神城の戦い」は、1574年(天正2年)と1581年(天正9年)の2度に亘って繰り広げられたのです。1度目の同合戦に焦点を当て、開戦に至るまでの経緯や実際の戦況を解説すると共に、高天神城が戦いの舞台となった理由についても探っていきます。
もともと高天神城は「今川氏」の支城であり、その城主は同氏の家臣「小笠原氏興」(おがさわらうじおき)が務めていました。
しかし今川氏は、1560年(永禄3年)に起こった「織田信長」軍との「桶狭間の戦い」や、1568~1571年(永禄11年~元亀2年)に、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄が行った「駿河侵攻」によって事実上衰退し、滅亡します。
そのため小笠原氏興は、1568年(永禄11年)頃には今川氏を見限り、「徳川氏」に寝返ったのです。
それまで三河国(現在の愛知県東部)の統治に専念していた徳川家康でしたが、桶狭間の戦いで「今川義元」(いまがわよしもと)が亡くなったあと、1569年(永禄12年)に高天神城を自身の属城としています。
この頃の徳川家康は、東への勢力を拡大している真っ最中でした。その一環として遠江支配を目論んでいた徳川家康にとって、遠江国(現在の静岡県西部)と駿河国(現在の静岡県中部及び北東部)の国境付近に位置していた高天神城は、遠江支配の要となる拠点だったのです。
時を同じくして武田信玄は駿河を平定。三河及び遠江への侵攻を開始しています。そのため、徳川氏と「武田氏」は小競り合いを続けていました。
その中で武田氏が初めて高天神城を攻撃したのは、1571年(元亀2年)のこと。この際に武田信玄は、約25,000人もの大軍を率いて「追手門」(おうてもん:別称「大手門」[おおてもん])まで押し寄せています。
しかし高天神城が築かれていたのは、遠州灘沿いにある標高132mの山地。そこは、三方の尾根が断崖絶壁、残る一方が尾根続きという複雑な地形になっていました。高天神城はこれを巧みに活かしていたため、「難攻不落の城」と呼ばれていたのです。高天神城が建つこの天然の要害を目の当たりにした武田軍は、このとき、すぐに退却したと伝えられています。
当時の武田信玄は、もともと同盟関係を築いていた相模国(現在の神奈川県)の「北条氏」と敵対していました。しかし、1571年(元亀2年)に北条氏と和議を結び、上洛を武田氏の明確な目標に据えます。
これに伴って1572年(元亀3年)より武田氏は、いわゆる「西上作戦」(せいじょうさくせん/さいじょうさくせん)を開始。前述のように武田信玄は、それまで三河や遠江への出兵を繰り返して徳川家康と対立していましたが、これは、1562年(永禄5年)に「清洲同盟」(きよすどうめい)と呼ばれる軍事同盟をすでに徳川家康と締結していた、織田信長との対立でもあることを意味していました。
この頃の織田信長は天下統一を目指し、破竹の勢いで領土を拡大。武田信玄は、そんな織田信長と徳川家康に対抗するため、1572年(元亀3年)10月に自ら大軍を率いて現在の山梨県甲府市を出発し、徳川家康の所領である遠江国へ西上作戦の一端として改めて進軍します。
武田信玄は、徳川家康の居城「浜松城」(浜松市中央区)と高天神城を結ぶ同国の要所であった「二俣城」(ふたまたじょう:浜松市天竜区)を、息子・武田勝頼と共に攻め落としたのです(二俣城の戦い)。
同合戦により高天神城は孤立することになったものの、このときはまだ、遠江に複数あった諸城における徳川氏の重要拠点としての役割を果たしていたのです。
その後も武田信玄は西上作戦を継続し、1572年(元亀3年)12月には「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)において、織田信長・徳川家康連合軍と対峙。同合戦で大きな勝利を収めた武田軍は三河への侵攻もさらに進め、1573年(元亀4年)2月、徳川軍の防衛拠点であった「野田城」(愛知県新城市)を陥落(野田城の戦い)。
しかし、武田信玄は同年4月12日、甲府へ帰陣する道中の信濃国伊那谷駒場(現在の長野県下伊那郡)にて、病没してしまったのです。
武田信玄が亡くなったことは一旦、武田勝頼によって隠されます。これは、武田信玄の遺言によるものでした。その後、武田勝頼は、武田氏の家督を相続して同氏の20代当主に。
新体制を構築しようとする武田勝頼でしたが、実は課題が山積みの状態。そのうちのひとつが、父から受け継いだ家臣団と自身の家臣団間に生じていた不和の問題です。
1562年(永禄5年)に武田勝頼は、郡代(ぐんだい:中世の守護代のこと)として「高遠城」(たかとおじょう:長野県伊那市)城主となっており、独自の家臣団を形成していました。彼らは武田信玄の家臣達とは世代が異なることもあって考え方に相違があり、また武田勝頼自身も、父の家臣達と意思疎通が上手く図れていなかったのです。
さらには、武田氏が合戦を繰り返してきたことで形成されていた敵の包囲網など、新当主となった武田勝頼には多くの不安材料がありました。
これを好機と捉えた織田信長は、室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を京都から追放。近江国(現在の滋賀県)の「浅井長政」(あざいながまさ)と越前国(現在の福井県北東部)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)を討つなどして、武田氏への反攻に移行する準備を整えます。
織田信長と同盟関係にあった徳川家康もこれに追随。1571年(元亀2年)に三河侵攻の一端として武田方が攻略していた「長篠城」(ながしのじょう:愛知県新城市)を奪還し、武田信玄の家臣であった「奥平定能」(おくだいらさだよし)を懐柔して寝返らせるなど、武田信玄によって失われていた三河国内の勢力を、徐々に回復させていったのです。
そんな中でも武田勝頼は、父・武田信玄の遺業である西上作戦の完遂を決意。遠江支配の強化を引き続き行っていくため、その要となる高天神城に改めて狙いを定めます。
1573年(元正元年)、武田勝頼は高天神城攻略の糸口とするべく、武田氏の重臣「馬場信春」(ばばのぶはる:別称「馬場信房」[ばばのぶふさ])を遠江に派遣。「諏訪原城」(すわはらじょう:静岡県島田市)の建築を開始します。その場所は牧之原台地の大井川寄り、東海道沿いにありました。
もちろん徳川家康はこの状況に気付いていましたが、武田軍との間に圧倒的な兵力差があったため、暗黙のうちに見逃していたのです。その後、武田勝頼は1574年(天正2年)2月に、織田氏が領していた東美濃(現在の岐阜県南部)の18城をすべて奪うことに成功。東美濃を手中に収め、近江及び西上作戦の最終目的である京都までの経路を確保しつつあった武田勝頼は、いよいよ高天神城の侵攻に乗り出したのです。
武田勝頼は1574年(天正2年)5月、25,000人もの兵を召集し、「小山城」(こやまじょう:静岡県榛原郡)を経たあと、徳川方の拠点である高天神城に攻め寄せます。しかし、同城の城主「小笠原長忠」(おがさわらながただ)率いる籠城軍の兵士はわずか1,000人ほどしかいなかったため、武田軍からの攻撃を受けてからすぐ、徳川氏に援軍を求めたのです。
ところがこのとき、徳川軍の総兵力は約10,000人しかおらず、加えて信濃から南下して来るかもしれない武田軍の別働隊に備える必要がありました。そのため徳川家康は、織田信長に救援を要請することにしたのです。
この間に、武田方の「山県(山縣)昌景」(やまがたまさかげ:別称「飯富昌景」[おぶまさかげ])軍の精兵達が高天神城の城門を突破。
同城を守備する小笠原長忠は、武田勝頼に内通していた「小笠原氏助」(おがさわらうじすけ)が城内で反乱を起こしたことにより、最終的には武田勝頼に降伏しました。
戦後の武田勝頼は、徳川方の兵士達全員を助命し、徳川軍への合流を許可する寛大な措置を執っています。徳川軍に属した兵士の中には、これに感動した者も多く、武田氏の配下に降る(くだる)名将も多くいたと伝えられているのです。
なお、徳川家康の要請を受けていた織田信長は、1574年(天正2年)6月14日には援軍を率いて岐阜を出立していました。しかし、高天神城落城の知らせを聞き、軍と共に岐阜へ引き返したと言われています。
ここまで第一次高天神城の戦いの経過については、織田信長の一代記である史料「信長公記」(しんちょうこうき/のぶながこうき)に基づいて解説してきました。しかし、同著において、別人として扱われている小笠原長忠と小笠原氏助は、実際には「小笠原信興」(おがさわらのぶおき)と称する同一人物。そのため、同合戦の経過にまつわる記述にも混乱が見られます。
信長公記によらない歴史上の事実としては、高天神城の守将であった小笠原信興は、他の兵士達と共に徳川家康からの援軍を待ちながら約60日も籠城しました。
しかし、徳川家康は小笠原信興から受けた救援の要請に応える気配が一向にない状況であったため、小笠原信興ら城兵達は武田軍からの猛攻に耐えきれず、「本間氏清」(ほんまうじきよ)らが討死。そして、高天神城が本丸のみとなったところで、城兵達の命と引き換えに開城したとする説が現在では有力とされています。