遠江国(現在の静岡県西部)支配の要となる「高天神城」(たかてんじんじょう:静岡県掛川市)を巡り、1574年(天正2年)に「武田勝頼」(たけだかつより)と「徳川家康」の間で行われた「第一次高天神城の戦い」は、徳川方が大敗を喫しました。高天神城は武田方に属することとなりましたが、徳川家康、及び徳川方と同盟関係にあった「織田信長」は、同城奪回の機会を虎視眈々と狙っており、遂に1581年(天正9年)、「第二次高天神城の戦い」が開戦したのです。同合戦の戦況を解説すると共に、1度目の合戦後、情勢や武田勝頼に対する社会的評価がどのように変化したのか、また、2度目の合戦へと繋がった背景についても分かりやすくご説明します。
第一次高天神城の戦い後、武田勝頼に見られた大きな変化のひとつが世間からの評価です。
武田勝頼は同合戦後、かなり高い声望を得たと推測されていますが、その要因のひとつは、徳川方で高天神城城主の「小笠原長忠」(おがさわらながただ)、及びその城兵達に対して行われた戦後処理にあります。
具体的に言うと武田勝頼は、小笠原長忠からの提案通りに城兵達の命を保証。彼らの進路はそれぞれの判断に任せ、小笠原長忠と共に武田方への降伏を希望する者は自身の配下に加え、徳川方への帰還を希望した者には高天神城からそのまま開放しました。
この度量が広いと言える武田勝頼の措置に、周囲の評価はうなぎ登り。もちろん、武田勝頼の元来持つ気質もあったのかもしれませんが、やはり何としてでも高天神城を手中に収めたい一心で、こうした寛大な措置を執ったとも考えられているのです。
一方で徳川・織田連合は第一次高天神城の戦いにおいて、小笠原長忠から再三要請を受けておきながらも援軍を送れなかったことで、それまで培ってきた周囲との信頼関係を大きく失墜。
同合戦後、武田氏の軍門に降った(くだった)城兵達の中には、1570年(元亀元年)に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で勃発した「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)において、徳川勢である小笠原長忠の指揮下で活躍した7人の猛将「姉川七本槍」のうちの6人がいたと伝えられています。
徳川氏は第一次高天神城の戦いでの対応により、忠誠を誓われていた多くの優秀な家臣達から見限られてしまったのです。
第一次高天神城の戦いでの勝利により、亡き父「武田信玄」が喉から手が出るほど欲していた名城・高天神城を我が物にした武田勝頼は、それ以前にも織田氏が領していた美濃国(現在の岐阜県南部)に侵攻し、「明知城」(あけちじょう:岐阜県恵那市、別称「白鷹城」[しらたかじょう])をはじめとする18城を攻略。
さらに武田勝頼は高天神城落城の3ヵ月後、徳川家康の居城「浜松城」(浜松市中央区)へ攻め寄せて城下に放火し、怒涛のごとく徳川家康を追い詰めました。
武田勝頼による積極的な外征について織田信長は、越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信」に宛てた手紙の中で、「武田勝頼は武田信玄の掟を守り、表裏を心得た武将である」と評していたことが伝えられています。
この逸話から窺えるのは当時の武田勝頼が、戦国の覇者とも言える織田信長らに「油断ならない敵である」と思われ始めていたということ。実際にこのときの武田氏は、同氏における最大版図を築いていました。
織田信長、そして織田信長と軍事同盟(清洲同盟[きよすどうめい])を締結していた徳川家康は、いよいよ本腰を入れて、武田氏と対峙しなければならなくなったのです。
これが背景のひとつとなり、1575年(天正3年)5月21日、約15,000人の武田軍と、約38,000人の織田・徳川連合軍の間で「長篠の戦い」(ながしののたたかい)が勃発。
同合戦では兵力や最新兵器である鉄砲、またそれを用いた「三段撃ち」と称する戦術などの圧倒的な差により、織田・徳川連合軍が大きな勝利を収めています。
長篠の戦いで武田勝頼は、「山県(山縣)昌景」(やまがたまさかげ:別称「飯富昌景」[おぶまさかげ])など、武田氏に仕える主だった重臣達を失ってしまいました。そのため、戦後の武田勝頼は家中の立て直しに注力します。その間に徳川家康は隙を見て、再び高天神城へ迫るために動き出したのです。
長篠の戦い後に徳川方は、武田信玄の「西上作戦」(せいじょうさくせん/さいじょうさくせん)で奪われた「二俣城」(ふたまたじょう:浜松市天竜区)などを取り戻し、武田方への反攻を開始。1575年(天正3年)8月には、武田方が高天神城への重要な補給線として用いていた「諏訪原城」(すわはらじょう:静岡県島田市)を徳川方が攻撃します。
しかし、このときの武田氏はまだ、体制の再編が完了していない状況にありました。そのため、武田勝頼からの援軍は期待できないことから城兵達は諏訪原城を開城し、「小山城」(こやまじょう:静岡県榛原郡)へ退去したのです。
徳川氏は諏訪原城を接収し、「今川氏真」(いまがわうじざね)を名ばかりの城主に据えました。そして同城を修築して補強し、大井川沿いにあった武田方の補給線に圧力を掛けたのです。
この高天神城への補給線を保持するために武田方は、高天神城と小山城の中間地点に「相良城」(さがらじょう:静岡県牧之原市)を築城。
これに対抗するために徳川方は、周辺の諸城を開城させようと攻撃を仕掛けます。このように補給線を巡って、武田方と徳川方による一進一退の攻防が続いたのです。
そんな中で徳川方は、1578年(天正6年)までに、高天神城周辺の押さえとするため、「横須賀城」(よこすかじょう:静岡県掛川市)を建造。
加えて1580年(天正8年)8月までに、現在の静岡県掛川市、及び菊川市に当たる地域において、「高天神六砦 」(たかてんじんろくとりで)の総称で呼ばれる「小笠山砦」(おがさやまとりで)、「能ヶ坂砦」(のがさかとりで)、「火ヶ峰砦」(ひがみねとりで)、「獅子ヶ鼻砦」(ししがはなとりで)、「中村砦」(なかむらとりで)、「三井山砦」(みついさんとりで)という6つの城郭を完成させています。
これにより徳川方は、武田方の高天神城への補給線を完全に断ったのです。
高天神六砦によって高天神城は孤立することになり、遠江における武田方の城は、高天神城と小山城のみになりました。
そんな中、1580年(天正8年)8月に徳川家康は、約5,000人の軍勢を率いて高天神城の奪還戦を図ります。徳川方が最初に行ったのは、「鹿垣」(ししがき)を築いて同城を包囲すること。鹿垣は獣の侵入防止を目的に、田畑に設置する垣でしたが、当時の戦場で敵を防ぐのにも用いられていました。
このときに徳川家康が採った戦法は大規模な武力攻撃ではなく、これまでの作戦を踏襲した兵糧攻め。高天神城への補給線を完璧に断った今、武田勝頼より運び込まれる弾薬や武器、食糧などが尽きてしまえば、自身で手を下さずとも、高天神城は自然に開城されると考えたのです。
前述した高天神六砦は第二次高天神城の戦い以前、そして最中に、武田方が高天神城へ入れないようにするための監視所として用いられたと考えられています。
武田方の城兵達が籠城して徳川方に応戦する中で、もともとは今川氏真にも仕えていた高天神城の城主「岡部元信」(おかべもとのぶ:別称「岡部長教/真幸」[おかべながのり/さねゆき])は、主君・武田勝頼に対して救援要請の書状を送っていました。
しかし、この当時の武田勝頼は、「甲相同盟」を結んでいたにもかかわらず破綻してしまった相模国(現在の神奈川県)の「北条氏政」(ほうじょううじまさ)より、駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)東部にて攻勢を受けていた状況。高天神城まで援軍を送る余力がほとんどなかったのです。
なお、一説によれば、城中にいた武田方の軍監(軍事を監督する役職)「横田尹松」(よこたただとし/ただまつ)が、「援軍を送らないように」と記した旨の書状を本国である甲斐国(現在の山梨県)へ送ったとも伝えられています。その真偽のほどは定かではありませんが、武田氏が置かれていた周囲の勢力情勢を慮って(おもんぱかって)のことだったのかもしれません。
このような状況下で、岡部元信は武田勝頼に何度も援軍を依頼しますが、依然として音沙汰はなし。1581年(天正9年)1月3日には、織田方に武田勝頼勢が高天神城へ出陣した噂が入りますが、これはまったくの虚報でした。
そして武田方の城兵達は遂に、武田勝頼の命を待つことなく、独自で動くことを決めます。高天神城での籠城中に徳川方に向けて矢文を放ち、降伏の意志を示しました。しかし、これを徳川家康が認められることは決してなかったのです。
岡部元信率いる武田方の城兵達は足掛け3年もの間、徳川方からの猛攻に耐えて高天神城に籠もります。ところがやがて兵糧が尽き、その多くが餓死してしまいました。
1581年(天正9年)3月22日夜、窮地に追い込まれた武田方の城兵全員、900人余りが決死の覚悟で城外へ。徳川方に向けて突撃しましたが武田軍は玉砕。武田方に属した城兵約730人もの遺体が堀に埋まっていたほどの壮絶な戦いであったと伝えられています。
そして徳川家康は高天神城落城のあと、自ら城内を回って検視。高天神城を焼き払い、浜松城へ帰還したのです。
第二次高天神城の戦いで武田方から降伏の申し出を受けたのにかかわらず、徳川家康がこれを拒否する姿勢を崩さなかった理由は、織田信長より送られたある書状から窺えます。
その書状において織田信長は、「武田方の降伏を許さないように」と徳川家康に命じていました。さらには、「武田勝頼の分際では、再び背後から徳川軍を攻めることなどできないだろう」と、武田方に援軍が送られてくることは到底ないと踏んでいたのです。
織田信長が立てたこの予想は的中し、武田勝頼は第二次高天神城の戦いにおいて、味方の城兵達を見殺しにする結果に終わっています。
また、織田・徳川連合による戦後処理は、第一次高天神城の戦い後に行った武田勝頼のそれとは正反対に、武田方に属した名高い武将達をひとり残らず処刑するというものでした。
こうすることで織田・徳川連合は、第一次高天神城の戦いで得た武田勝頼の求心力や権威を失わせ、その無力さが要因となってもたらされた悲惨な合戦の結末を、世間に向けて誇示したい思惑があったと推測されているのです。
結局武田氏に仕えていた家臣達はこの思惑に乗せられ、同氏に背いて離れる者が激増する事態に。それ以降武田氏は、滅亡までの一途を辿ることとなります。そして武田勝頼は、高天神城落城の翌1582年(天正10年)、家臣に裏切られた状況で自刃したのです。
難攻不落の城として様々な武将達による争奪戦が繰り広げられていた高天神城は、第二次高天神城の戦い後に戦略的な価値が大きく下落。徳川方が高天神城周辺の押さえとするために築いた横須賀城がこの地域の政治的な拠点として用いられ、明治時代まで続きました。
高天神城跡は、「主要な曲輪/郭(くるわ)が遺存し、中世の山城として遺構に秀でたものがある」との理由から、1975年(昭和50年)10月に国指定の史跡となりました。加えて2005年(平成17年)3月、2007年(平成19年)2月の2度に亘って指定面積が拡げられ、現在の総面積は130,000㎡余りとなっています。
また高天神城跡には、戦国時代の縄張(なわばり)による土塁(どるい)の形跡が現代にまで遺されており、当時の東日本に建てられた城郭が有した特徴の一部を窺い知ることが可能。
堅城として知られる高天神城ですが、現在はハイキングコースが整備されているため、誰でも気軽に散策できます。そんな高天神城跡は、NHK大河ドラマ「どうする家康」でも話題となっている徳川家康ゆかりの場所でもあるため、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
なお、歴史好きの人達に人気の「高天神城 御城印」、及び「高天神六砦 御城印」は、高天神城跡より車で5分ほどの場所にある「掛川市文化会館シオーネ」の事務所窓口にて購入できます。