「菊池武光」(きくちたけみつ)は、平安時代の末期から室町時代までの長きにわたって九州を制していた菊池一族の15代目当主。己の技量のみで当主になり、九州地方においては時代の変化に大きな影響を与えました。少年期に死の危機に瀕しながらも、政治力と戦略により九州制覇を成し遂げています。数々の戦いで勝利をおさめた菊池武光は、勇将としてその名をとどろかせました。菊池武光について解説します。
菊池武光が生まれたのは1319年(元応元年)、16人もの兄弟に囲まれて育ちました。
父は菊池家12代目「菊池武時」(きくちたけとき)、母は側室であったため菊池武光は一族の当主になる予定はなかったのです。
菊池武光は、若い時に父を亡くしています。それは菊池武光が14歳のころ、1333年(元弘3年)に起きた「博多合戦」によるものでした。
この頃、北条氏の支配を受けていた全国の御家人のもとへ、皇室による政治を復活させようと「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒の令旨(りょうじ:皇室の命令を公に伝えるために発行される文書)を発布。父・菊池武時は、九州の有力御家人、少弐氏、大友氏に、鎌倉幕府の九州統括機関「鎮西探題」に討ち入りをしようと呼びかけました。
ところが挙兵の当日、少弐、大友の2氏は幕府方に寝返り、父・菊池武時とその一族約70名に向かって襲い掛かってきたのです。共に参戦していた菊池武光は、父・菊池武時の指示で「聖福寺」(福岡市博多区)に匿われることで、命を落とさずに済みました。
博多合戦以降の数年間、菊池武光は本家とは別に暮らす日々が続きます。この時点ではまだ、菊池武光が一族において大きな活躍をする人物になるとは考えられていません。名前を名乗る際も菊池の名は使わず、「豊田十郎」として暮らしていました。
そんな菊池武光の人生にわずかな光明が差したのは、菊池家の居城「菊池城」(現在の熊本県菊池市)が北朝勢力に奪われたときでした。
時代は鎌倉幕府が倒れ、執権だった北条氏も滅亡したあとのこと。後醍醐天皇は長年の悲願、皇室による政治「建武の新政」を開始したものの、配下だった「足利尊氏」(あしかがたかうじ)に裏切られ、足並みが揃わなくなっていました。
こうして後醍醐天皇を中心とした南朝勢力、足利尊氏を中心とした北朝勢力と、日本の勢力は再び2つに分かれることになったのです。
菊池家の居城・菊池城は、九州における北朝方の有力武士「合志幸隆」(こうしゆきたか)に占拠されていました。このことを知った菊池武光は、城を奪還すべく南朝方の武士「恵良惟澄」(えらこれずみ:阿蘇惟澄とも)と協力し、軍を率いて攻勢を開始します。
休むことなく攻めて菊池城の奪還に成功。合志幸隆に城を奪われてから取り戻すまでの期間はたった6日でした。短期間の活躍により菊池一族、ひいては南朝勢力において菊池武光は高い評価を受け、菊池家15代目当主として家督を相続したのです。
菊池武光は、次なる目標として北朝勢力を廃すべく九州制覇を狙います。ちょうど同じ頃、後醍醐天皇は自身の皇子を各地に派遣し、南朝勢力を増やそうと画策していたところでした。
1336年(延元元年/建武3年)に、征西府将軍(北朝方を倒すための大将)として九州へ下向してきたのが、後醍醐天皇の皇子「懐良親王」(かねよししんのう)だったのです。
九州の南朝方を味方に付けるため大きな旗印が必要だった菊池武光と、影響力はあっても武力を持たない懐良親王は、互いの目的を果たすため協力関係を結ぶことに。こうして菊池武光は、懐良親王を手助けするべく九州各地を転戦することになります。
同時期に足利尊氏の命令で九州統一を図っていた北朝方でしたが、足利尊氏と弟「足利直義」(あしかがただよし)が対立したことで、その中でも派閥が分裂していました。足利尊氏方の「一色範氏」(いっしきのりうじ)、そして足利直義方の「足利直冬」(あしかがただふゆ)と「少弐頼尚」(しょうによりひさ)の2派。
九州の北朝方の内紛は互いを攻撃するため、南朝方とも同盟を結ぶなど、非常にややこしい関係性を作りあげていきました。この内紛が終わりを迎えたのは、1353年(正平8年/文和2年)「針摺原の戦い」(はりするばるのたたかい)です。
足利尊氏方の一色範氏に攻め込まれた少弐頼尚が、このとき同盟を結んでいた菊池武光に救援を求め、一色範氏を九州から撤退させることに成功。この恩に対し少弐頼尚は、「末代まで菊池に味方し決して弓を引くことはない」と誓った血判状を菊池武光に渡しました。
菊池武光と懐良親王は、針摺原の戦い以降は少弐頼尚を味方にしていましたが1359年(延文4年)の「筑後川の戦い」で血判状の誓いも虚しく敵対関係となります。
南北朝時代の九州で勃発した戦の中では最大、加えて日本三大合戦のひとつに数えられるほど大規模な戦になりました。
両軍は筑後川を挟んで睨み合い、菊池武光と懐良親王の南朝方は40,000騎、少弐頼尚の北朝方は60,000騎と、菊池武光達にとっては非常に不利な戦いです。そこで菊池武光は一計を講じ、針摺原の戦いで少弐頼尚に書かせた血判状を敵軍からよく見える位置に掲げて進軍させました。
大将の不誠実な行いを見せられた北朝方は士気を落とし、その結果、南朝方は大勝利を収めると共に九州から北朝勢を一掃することに成功。懐良親王は戦で深手を負ったものの、実に九州へ上陸してから20年をかけて統一に成功したことになります。
九州制覇の報を聞いた南朝の都、吉野では大いに賑わいを見せました。全国的な北朝有利だった局面から、わずかに南朝方に希望の光が見えた瞬間でした。
懐良親王と菊池武光ら九州南朝軍は、ついに北朝の都である京都を目指し海路で進軍しましたが、進路である瀬戸内方面は制圧できていないため、出航後に北朝方に大敗してしまうのです。九州南朝軍は、北朝方に追われ1372年(文中元年/建徳3年)に高良山(福岡県久留米市)へ退却。
これ以降、菊池武光に関する記録はふつりと消え、その後1373年(文中2年)の11月16日に命を落としたと発表されています。
しかし、いつどのように亡くなったのか判然としないなど、九州を北朝の手から救い上げた英雄の最期としては、やや謎の多い締めくくりと言わざるを得ません。
菊池武時は、菊池12代当主で菊池武光の父親。後醍醐天皇の令旨を受け、北条氏の九州統治機関・鎮西探題に攻め入ります。けれど、協力関係にあった少弐・大友の両氏に裏切られ、70名というわずかな手勢で戦うことになってしまいます。
勝ち目がないと判断した菊池武時は、菊池武光をはじめ多くの親族を撤退させました。結果として菊池武光は命を救われて、大活躍するきっかけに繋がります。
「菊池隆盛」(きくちたかもり)は、菊池武光の祖父にあたる人物です。1271年(文永8年)に誕生し、鎌倉時代を生きた武将で、幼名を「弥四郎」と呼ばれていました。
元々は九州の地で生まれましたが、のちに関東の西北、上州の地に移ることになり、その際に新田氏の協力があったと考えられているのです。しかし、移動した理由が記されている文献がなく、実際のところは明らかになっていません。
菊池武光の異母兄で、菊池13代当主にあたるのが「菊池武重」(きくちたけしげ)です。博多合戦にて命を落とした父・菊池武時が、忠義を守り後醍醐天皇のために戦ったことを評価され菊池武重は、肥後守に任命されました。
さらに菊池武重は、菊池一族の絆を深めるため一族の家訓「家憲」を制定。代表的な例としては「重要な決定を除き、基本的には一族における合議制で決めること」などがあります。他にも、宗家と分家関係を明確にするといったことも取り決めました。
そして「菊池千本槍」を考えた人物でもあります。1335年(建武2年)に、「箱根・竹ノ下の戦い」で窮地に陥った菊池武重がとっさの機転で考案。この菊池千本槍とは、竹の先に短刀を結び付けた即席の槍を、敵が攻撃してきた瞬間を狙って一斉に突き立てる戦法のこと。また、九州の猛者、菊池氏の勇猛さなどを表す言葉としても用いられます。
菊池武光を称えた銅像は、「菊池武光公騎馬像」と呼ばれており、菊池武光が馬に乗って軍配を掲げた勇ましい姿を見ることができます。
設置されている場所は、熊本県菊池市隈府に位置する「菊池神社」敷地内。この菊池神社は1868年(慶応4年)に菊池一族を讃えるため、「明治天皇」が熊本藩へ命じて作られた神社です。また菊池市は、2017年(平成29年)から菊池武光像を含めた複数の指定スポットを巡るとグッズがもらえる「菊池一族ウォークラリー」を実施。
菊池一族が気になっている、もっと知りたいと考えている方は巡ってみると楽しめます。なお、他にも福岡県三井郡大刀洗町においてゆかりの地として菊池武光像が1937年(昭和12年)に建てられました。
菊池槍は、菊池武光の異母兄・菊池武重が、箱根・竹之下の戦いで勝利を収めたことから、作られたとされています。または、菊池氏の拠点であった熊本県菊池市には、菊池氏に1,000本の槍の作刀を命じられて延寿派の刀工が、鬼2匹の手を借り一夜のうちに打ち上げたというような伝説も伝わっているのです。
どのようなことをきっかけに作られたかは、やや曖昧な部分もありますが、菊池槍の特徴は定まっています。刀身は横手筋がなく、鵜首造り。身幅は狭く、重ねは厚くどっしりとした印象です。茎は一般的な槍と同様に長く、幅は刀のように広い造りとなっています。