平安時代の合戦歴史年表
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平安時代の合戦歴史年表 平安時代の合戦歴史年表
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「平安時代の合戦歴史年表」についてご紹介します。平安時代は、794年(延暦13年)の平安京への遷都から、12世紀後半に鎌倉幕府が開かれるまでの約400年間のこと。奈良時代の律令制度を継承しながらも、9世紀後半には藤原氏が政治の実権を握るようになりました。また百姓のなかには自衛のために武装し、武士に成長する者も存在。日本史において「武士」が登場したのもこの時代と言われています。

一方12世紀中期に鳥羽上皇が崩御(ほうぎょ:天皇、皇帝、皇后などがお亡くなりになること)すると、皇室・摂関家を巻き込む政争が頻繁に起こり、武士の力が必要とされました。やがて「平氏」が政権を持つようになり、異例の出世を遂げた「平清盛」(たいらのきよもり)は院政を停止。そして平氏政権を打ち立てます。

そののち、平氏政権に不満を持った各地の武士・豪族層が次々に挙兵。やがて1185年(元暦2年/寿永4年)の「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡することとなります。そして、この戦いで勝利した源氏の棟梁「源頼朝」が鎌倉に幕府を開くことで、平安時代は終わりを告げました。

なお、この時代の日本文化は、独自の国風文化が発展。「かな文字」の発明、「紫式部」(むらさきしきぶ)の「源氏物語」、「清少納言」(せいしょうなごん)の「枕草子」(まくらのそうし)などの文学作品の登場、独特の建築様式「寝殿造」(しんでんづくり)の発達などが特徴として挙げられます。

平安時代年表

政権保持者 合戦/主な出来事
781~806年桓武天皇
794年 平安京への遷都

793年(延暦12年)、桓武天皇は長岡京に代わる都として、山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡(現在の京都府京都市)にまたがる地に中国の長安城を模した「平安京」を建設。翌794年(延暦13年)に遷都しました。1869年(明治2年)に政府機関が東京へ移るまでの帝都として知られています。

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806~809年平城天皇
810年 薬子の変

薬子の変」(くすこのへん)とは、平安時代初期の810年(大同5年)に起こった政変です。薬子とは、平城上皇の寵愛を受けた女官「藤原薬子」(ふじわらのくすこ)のこと。

桓武天皇の皇子である「平城上皇」(へいぜいじょうこう)と「嵯峨天皇」(さがてんのう)の兄弟が対立しますが、嵯峨天皇が迅速に兵を動かしたことで、平城上皇と藤原薬子は進軍を諦めます。

そののち、平城上皇は出家しますが、藤原薬子は服毒による自殺を遂げました。

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809~823年嵯峨天皇
823~833年淳和天皇
833~850年仁明天皇
850~858年文徳天皇
858~891年藤原氏
866年 応天門の変

応天門の変」(おうてんもんのへん)は、866年(貞観8年)に発生した宮廷内の政変です。

応天門が焼失し、大納言の「伴善男」(とものよしお)によって右大臣「源信」(みなもとのまこと)に嫌疑がかけられました。しかし太政大臣「藤原良房」(ふじわらのよしふさ)の進言により源信は無罪に。そののち、伴善男が源信を失脚させるために放火したことが判明し、伴善男父子は流刑となりました。

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891~896年宇多天皇
894年 遣唐使廃止

遣唐使の廃止は894年(寛平6年)、「菅原道真」(すがわらのみちざね)が提案しました。実は遣唐使は630年(舒明天皇2年)から894年(寛平6年)の間に派遣されましたが、その大半は遭難したと言われています。

また当時、唐から日本にも使節団が派遣されていたこと、唐は内乱続きで情勢が傾き、弱体化していたことも廃止の理由。危険を冒してまで日本から唐へ遣唐使を送る必要はありませんでした。

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896~930年醍醐天皇
930~949年藤原忠平
939年 平将門の乱

平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)は、桓武天皇の血筋を引く関東の豪族「平将門」が朝廷を相手に反乱を起こし、鎮圧された事件のこと。平将門は国司と対立していた常陸国の豪族「藤原玄明」(ふじわらのはるあき)を保護し、国司の軍勢を打ち破りました。

朝廷は平将門を「朝敵」とし、討伐軍を集めます。そして朝廷の呼びかけに応じた「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)と「平貞盛」(たいらのさだもり)によって、平将門は額に矢を受けて戦死しました。

なお、同時期に瀬戸内海で起きた「藤原純友の乱」(ふじわらのすみとものらん)と合わせて「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)と呼びます。

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949~967年村上天皇
967~1068年藤原氏
1051年 前九年の役

前九年の役」(ぜんくねんのえき)とは、1051年(永承6年)~1062年(康平5年)に陸奥国の俘囚(ふしゅう:朝廷の支配下にある蝦夷[えぞ])の安倍氏とこれを討とうとした「源頼義」(みなもとのよりよし)・「源義家」(みなもとのよしいえ)父子との間で起きた戦いです。

安倍氏は朝廷への貢租(こうそ:年貢、租税のこと)を怠るだけではなく、国府の管轄地である衣川(ころもがわ)に進出。これに対し、陸奥守「藤原登任」(ふじわらのなりとう)が安倍氏を攻めます。

しかし、安倍氏は玉造郡鬼切部(たまつくりぐんおにきりべ:現在の宮城県大崎市鳴子)で藤原登任の軍勢を迎え撃ち、大勝。これにより、前九年の役が始まりました。

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1068~
1129年
白河上皇
1083年 後三年の役

後三年の役」(ごさんねんのえき)は、平安末期の1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)に起こった戦いです。前九年の役の功労によって清原武則(きよはらのたけのり)は鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任ぜられました。

しかし、この官位授与が清原氏の内部抗争である後三年の役へ繋ることとなります。そしてこの内紛に陸奥守である源義家が介入。清原氏に身を寄せていた「藤原清衡」(ふじわらのきよひら)とともに清原氏を滅ぼします。

そののち、安倍氏・清原氏の遺領を引き継いだ藤原清衡は平泉に居を構え、奥州藤原氏へと繋がっていくこととなりました。

前九年の役と後三年の役を合わせて「前九年・後三年の役」と呼びます。

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1068~
1129年
白河上皇
1086年 院政の開始

院政」(いんせい)とは天皇が在位中、次期天皇を決めて譲位(じょうい:天皇位を譲ること)し、自分は「上皇」(じょうこう:天皇が譲位したあとの尊号)あるいは「法皇」(ほうおう:上皇が出家したあとの尊号)として専制政治を行うこと。

白河天皇は1086年(応徳3年)、弟の「輔仁親王」(すけひとしんのう)への皇位継承を嫌い、幼少の「堀河天皇」(ほりかわてんのう)に譲位したあと、院政を行うようになりました。

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1129~
1156年
鳥羽上皇
1156年 保元の乱・平治の乱

保元の乱」(ほうげんのらん)は、1156年(保元元年)に起きた京都の争乱です。鳥羽法皇の死後、朝廷の実権を握ろうとした崇徳上皇と、「平清盛」(たいらのきよもり)ら武士を動員した後白河上皇が衝突。この結果、崇徳上皇は讃岐に配流(はいる)され、後白河上皇が実権を握ることとなりました。

しかしそののち、「平治の乱」が起こります。後白河上皇の側近である「信西」(しんぜい)と「藤原信頼」(ふじわらののぶより)が対立。平清盛と手を組んだ信西に不満をもった藤原信頼は、平清盛が熊野詣のために都を留守にした際、「源義朝」(みなもとのよしとも)と挙兵し、後白河上皇を幽閉、信西を自害に追い込みます。帰還した平清盛はすぐに藤原信頼と源義朝を攻め滅ぼし、源義朝の子「源頼朝」(みなもとのよりとも)を伊豆に配流しました。

なお、朝廷の政争で武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、のちの武家政権へ繋がるきっかけとなったのです。

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1156~
1167年
後白河天皇
(法皇)
1167~
1179年
後白河法皇
・平清盛
1167年 平清盛が太政大臣に

平清盛は1167年(仁安2年)、朝廷から武士として初めて「太政大臣」(だじょうだいじん)に任命されます。太政大臣とは、律令制度における最高位の役職です。政治の中心が貴族であった平安時代では、貴族以外の人物が太政大臣に任命されることは異例でした。

しかし、平清盛は1156年(保元元年)の保元の乱をきっかけに、数々の政治権力の争いを利用し、地位を固めていったのです。

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1179~
1183年
伊勢平氏
1180年 源平合戦(治承・寿永の乱)

治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)は1180年(治承4年)から1185年(元暦2年)にかけて起きた、平氏政権に対する反乱です。「源平合戦」(げんぺいかっせん)、または「源平の戦い」(げんぺいのたたかい)とも呼ばれています。

安徳天皇の即位により、皇位継承が絶望となった「以仁王」(もちひとおう)が、「源頼政」(みなもとのよりまさ)の協力を受け、平氏追討を目論んで挙兵を計画。しかし挙兵直前に企てが露見し、以仁王らは平氏の大軍から攻撃を受け、戦死します。

なお、以仁王の挙兵がきっかけとなり、治承・寿永の乱は6年にも及ぶ内乱となりました。

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1183~
1185年
後白河法皇
1185年 壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)は1185年(元暦2年/寿永4年)3月24日に、長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)を舞台としたこの戦いです。この戦いにより、平氏は滅亡。1180年(治承4年)からおおよそ6年かけて争った治承・寿永の乱に終止符が打たれました。

壇ノ浦の戦いにより平氏政権は倒れ、戦いに勝利した源氏の棟梁、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、武家政権を確立することとなるのです。

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