鎌倉時代の合戦歴史年表
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鎌倉時代の合戦歴史年表 鎌倉時代の合戦歴史年表
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「鎌倉時代の合戦歴史年表」についてご紹介します。鎌倉時代は1185年(文治元年)に「源頼朝」(みなもとよりとも)が鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に幕府を開いてから、1333年(正慶2年)に滅亡するまでの約150年間のこと。それまでの貴族中心の政治から、武士中心の政治へ大きく転換した時代です。日本史における中世はこの時代から始まったと言われています。

源頼朝の死後は、その妻・北条政子の家系である北条氏が台頭し、鎌倉幕府の政権を握るようになりました。北条氏は執権制度を創設し、日本初の武家法「御成敗式目」を制定。これに対し、再び天皇中心の政治を取り戻すために、後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こします。しかし鎌倉幕府は承久の乱に勝利し、ますます朝廷に対する政治的な優位が確立しました。

一方、アジアを広く支配していたモンゴル帝国により、鎌倉幕府は2度にわたる襲来「元寇」を受けています。元寇を防いだものの、外国を相手にした戦いだったため、鎌倉幕府は御家人達に十分な報酬が与えられず、やがて御家人達は幕府に対し、不満を持ち始めました。さらに幕府が発布した御家人のための借金帳消し令「永仁の徳政令」で経済は混乱。そんななかで後醍醐天皇が足利尊氏、新田義貞とともに立ち上がり、鎌倉幕府を滅亡させたのです。

鎌倉時代年表

政権保持者 合戦/主な出来事
1185~
1192年
後白河法皇・
源頼朝
1185年 鎌倉幕府とは

鎌倉幕府」は、1185年(文治元年)に源頼朝によって鎌倉に樹立された武家政権。そののち、明治維新まで続く武家政権の礎になった時代です。文化面では、素朴で力強い武家文化が花開き、末法の世からの救済を目的にした新しい仏教も誕生しました。

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1192~
1196年
九条兼実・
源頼朝
1189年 奥州合戦

奥州合戦」(おうしゅうかっせん)は、1189年(文治5年)に起きた奥州藤原氏と源頼朝が戦った合戦の総称です。「壇ノ浦の戦い」のあと、一躍英雄としてもてはやされた「源義経」(みなもとのよしつね)は、源頼朝の不興を買ってしまいます。

鎌倉から追放された源義経は、奥州平泉に逃れ、「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)の庇護を求めました。源頼朝は藤原氏に源義経の引渡しを要求しますが、藤原秀衡はこれを拒否。

しかし、藤原秀衡が没すると、源頼朝は藤原秀衡の子「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)に迫り、とうとう源義経を殺害させます。さらに源頼朝は奥州藤原氏に対し、これまで源義経を匿った罪を口実として、奥州征伐を開始するのでした。

なお、奥州合戦の功績から、源頼朝は按察使(あぜち:地方行政を監督する官職)へ任官を打診されますが、辞退。そののち、1192年(建久3年)に上後白河法皇が崩御すると、源頼朝は念願の征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開くこととなりました。

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1196~
1219年
後鳥羽天皇
(上皇)・源氏
1221年 承久の乱

承久の乱」(じょうきゅうのらん)は1221年(承久3年)に、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が再び上皇中心の政治を取り戻そうと、鎌倉幕府の2代執権北条義時」(ほうじょうよしとき)に対して挙兵し、敗れた兵乱です。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐へ、「順徳上皇」(じゅんとくじょうこう)は佐渡へ流されました。また承久の乱に関与はしていなかった「土御門上皇」(つちみかどじょうこう)は、自ら申し出て土佐国へ配流(はいる)となります。そののち、鎌倉幕府は朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する「六波羅探題」(ろくはらたんだい)を設置しました。

なお、承久の乱は、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力争いと言われています。

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1219~
1221年
後鳥羽上皇・
北条政子
1221~
1224年
北条義時
1224~
1242年
北条泰時
1232年 御成敗式目

御成敗式目」(ごせいばいしきもく)は3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)によって1232年(貞永元年)に制定された武家社会初の法令です。

全51条からなる御成敗式目は、室町幕府をはじめ、戦国時代、江戸時代と長く続いた武家政権の法令において基本となりました。「貞永式目」(じょうえいしきもく)とも呼ばれています。

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1242~
1246年
北条経時
1246~
1256年
北条時頼
1256~
1264年
北条長時
1264~
1268年
北条政村
1274年 元寇(蒙古襲来)

元寇(蒙古襲来)(げんこう[もうこしゅうらい])は、元(旧モンゴル帝国)とその属国である高麗(こうらい)によって1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度に亘り、行われた日本侵攻のことです。1度目を「文永の役」(ぶんえいのえき)、2度目を「弘安の役」(こうあんのえき)と言います。

いずれも博多湾に上陸した元軍に対し、日本軍は苦戦を強いられますが、夜中、暴風雨となり、大きな被害を受けた元軍は撤退しました。

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1268~
1284年
北条時宗
1284~
1301年
北条貞時
1297年 永仁の徳政令

永仁の徳政令」(えいにんのとくせいれい)は、1297年(永仁5年)に9代執権「北条貞時」(ほうじょうさだとき)が発令した日本初の徳政令です。

なお、徳政令とは、鎌倉時代から室町時代にかけて、幕府や朝廷などが土倉(どそう:鎌倉時代、室町時代における金融業者のこと)などに対して債権放棄を命じた法令のことを言います。

鎌倉幕府は奉公と御恩で成り立っていますが、元寇で身を尽くした御家人に対し、御恩として与えられる恩賞がありませんでした。困窮した御家人は自らの所領を質入れしたり、売却したりすることで費用を捻出します。

しかし、土地を手放す御家人が増えることは、鎌倉幕府にとっても信用の失墜に直結。そこで鎌倉幕府は土倉に対し、御家人が質入れや売却した土地を無償で返却することを命じるとともに、御家人の質入れも禁止しました。

1301~
1311年
北条師時
1324年 正中の変

正中の変」(しょうちゅうのへん)は、1324年(正中元年)に後醍醐天皇と腹心の「日野俊基」(ひのとしもと)・「日野資朝」(ひのすけとも)達が鎌倉幕府に不満を持つ者を集め、倒幕を計画した事件のことです。呼びかけには「多治見国長」(たじみくになが)をはじめ、延暦寺の僧兵や河内、三河、美濃などの武士達が応じました。

しかし、謀議に参加していた「土岐頼貞」(ときよりかず)が六波羅探題に密告したことで倒幕計画は事前に発覚。これによって六波羅探題の軍勢が多治見国長を襲撃し、多治見国長は一族と共に自害します。

鎌倉幕府はさらに朝廷を追求しますが、日野俊基・日野資朝は後醍醐天皇に詮議(せんぎ:罪人の取り調べのこと)が及ぶのを恐れ、自ら罪を被りました。

そののち、日野資朝は首謀者として佐渡へ流刑、後醍醐天皇と日野俊基は無罪判決となったのです。

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1311~
1312年
北条宗宣
1312~
1315年
北条熙時
1315~
1316年
北条基時
1316~
1326年
北条高時
1326年北条貞顕
1331年 元弘の乱

元弘の乱」(げんこうのらん)は1331年(元弘元年)に、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した事件です。1324年(正中元年)の正中の変により、後醍醐天皇を中心とした倒幕計画は失敗しましたが、そのあとも後醍醐天皇は倒幕を目論んでいました。

しかし、間もなく後醍醐天皇は捕縛され、隠岐へ流刑。腹心の日野資朝は処刑されてしまいます。なお、鎌倉幕府に対する抵抗運動は続き、「楠木正成」(くすのぎまさしげ)や「赤松則村」(あかまつのりむら)など各地の反幕府勢力が挙兵。

さらに幕府から派遣された「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が天皇側に寝返り、六波羅探題を攻撃します。足利尊氏の離反が大きな転機となり、鎌倉幕府はついに滅亡することとなりました。

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1326~
1333年
北条守時

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