南北朝時代の合戦歴史年表
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南北朝時代の合戦歴史年表 南北朝時代の合戦歴史年表
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「南北朝時代の合戦歴史年表」についてご紹介します。南北朝時代は、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が擁立した光明(こうみょう)天皇を中心とした北朝と、後醍醐天皇が開いた南朝の2つの政権が設立した時代です。朝廷が2つ存在する時代は、日本史のなかでも特殊な時代でした。

後醍醐天皇は、足利尊氏ら武士の助けを借りて鎌倉幕府を倒したのち、天皇中心の政治「建武の新政」を始めます。しかし、建武の新政は公家を重視し、武士をないがしろにした政治であったことから、武士達は不満を持ちました。そこで足利尊氏は後醍醐天皇を朝廷のある京都から追放。1336年(建武3年)に光明天皇を擁立し、1338年(建武5年)に室町幕府を開きます。これに対し、後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡)で天皇を名乗り続けていました。

一般的に南北朝時代は1336年(建武3年)から、室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)によって南北朝合一がなされた1392年(明徳3年)までの約56年間を指します。

南北朝時代年表

政権保持者 合戦/主な出来事
1333~
1336年
後醍醐天皇
1334年 建武の新政

建武の新政」(けんむのしんせい)とは、鎌倉幕府を倒した「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が行った天皇中心の政治のこと。公家と武家の区別のない政治を理想としていましたが、実際は公家を重視した政治だったため、武士の間で不満が高まります。やがて足利尊氏が挙兵したことで、建武の新政はわずか2年で終わりを迎えました。

1335年 延元の乱

延元の乱」(えんげんのらん)とは、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)ら足利氏と後醍醐天皇の建武政権との間で起こった一連の戦いのことです。1336年(建武3年)に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻してから、「室町幕府」を開くまでの戦乱を指します。「建武の乱」と呼び、足利方が勝利しました。

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1336~
1392年
南朝
北朝(足利氏)
1336年 湊川の戦い

湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)は、九州から東上してきた足利尊氏・「足利直義」(あしかがただよし)兄弟の軍と、後醍醐天皇方の「新田義貞」(にったよしさだ)・「楠木正成」(くすのきまさしげ)の間で行われた合戦です。この戦いで足利軍は勝利。新田義貞は敗走し、楠木正成は戦死しました。

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1338年 足利尊氏が征夷大将軍となる

湊川の戦いののち、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に補任され、新たな武家政権(室町幕府)を開きます。このとき、後醍醐天皇は吉野に脱出し、新たに朝廷(南朝)を開きました。南北朝時代のはじまりとなりますが、足利尊氏を中心とした北朝が優勢だったと言われています。

1336~
1392年
南朝
北朝(足利氏)
1338年 室町幕府とは

室町幕府は、1338年(暦応元年)に、足利尊氏によって京都に樹立された武家政権です。鎌倉幕府の政策を踏襲しつつ、各国の支配を一任した守護大名の設置や、明(現在の中国)との日明貿易などにより、3代将軍足利義満の時代に最盛期を迎えます。

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1359年 筑後川の戦い

筑後川の戦い」(ちくごがわのたたかい)は、南北朝時代の1359年(延文4年)に筑後川(熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れる九州最大の1級河川)を南北に挟んで、南朝軍約40,000人、北朝軍約60,000人が戦った合戦のことです。

九州で発生した戦いでは最大と言われ、「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と合わせて「日本三大合戦」と呼ばれています。この戦いでは南朝方が勝利しました。

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1389年 土岐康行の乱

土岐康行の乱」(ときやすゆきのらん)は、1389年(康応元年)から1390年(明徳元年)にかけて起きた事件です。室町幕府3代将軍・足利義満は強大な有力守護大名の勢力を弱体化するために、守護大名同士の抗争や一族の内紛を利用しました。

そんななか、土岐氏の内紛が勃発。足利義満は土岐康行に美濃・伊勢の守護職を継承し、尾張の守護職を土岐康行の弟「土岐満貞」(ときみつさだ)に与えます。これに不満を持った土岐康行は土岐満貞を攻めますが、足利義満は土岐康行の行動を幕府に対する反逆とみなし、土岐康行を討伐したのです。

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1336~
1392年
南朝
北朝(足利氏)
1391年 明徳の乱

明徳の乱」(めいとくのらん)は、1391年(明徳2年/元中8年)に有力守護大名「山名氏清」(やまなうじきよ)と「山名満幸」(やまなみつゆき)が室町幕府に対して起こした反乱のこと。

「山名氏」は、守護大名の中でも11ヵ国を領地としていた大大名です。当時全国にあった国は66ヵ国。そのうち6分の1を有していたことから「六分の一殿」(ろくぶんのいちどの)とも呼ばれていました。

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1392~
1394年
足利義満
1392年 南北朝合一

南北朝合一とは南朝・北朝両朝廷の統一のことを指します。1392年(明徳3年)、3代将軍・足利義満の勧めにより、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)へ天皇を譲位することで、南北朝が統一しました。

このとき、天皇即位は大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が交互に行うことを条件とします。しかし南北朝統一後は北朝のみしか、天皇即位は行われませんでした。

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