安土桃山時代の合戦歴史年表
/ホームメイト

安土桃山時代の合戦歴史年表 安土桃山時代の合戦歴史年表
文字サイズ

「安土桃山時代の合戦歴史年表」についてご紹介します。安土桃山時代とは、織田信長が京都入りした1568年(永禄11年)、もしくは室町時代が終わった1573年(天正元年)から、「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝利を収めた1600年(慶長5年)までの約30年間。織田信長と豊臣秀吉が活躍した時代であり、日本史における近世に分類されます。なお、安土桃山という名前は、織田信長の居城「安土城」(滋賀県近江八幡市)と、豊臣秀吉の代表的な城「伏見城」(京都府京都市)の跡地に名付けられた「桃山」という地名が由来です。

約30年という短い期間ですが、南蛮(なんばん:スペイン・ポルトガルなどの西洋諸国のこと)から、鉄砲やキリスト教など様々な文化が流れ込んだ時代でもあります。織田信長は南蛮文化に興味を示し、南蛮貿易を後押しする政策を取りました。政治的な特色としては、兵農分離(へいのうぶんり:武士と農民の身分を明瞭に分離した制度)をはじめ、自由に商売ができる楽市楽座などを実施。これに対し、豊臣秀吉の政治は、土地の検査「太閤検地」や、農民一揆を防ぐために「刀狩令」を実施しました。

また、安土桃山時代は、織田信長が鉄砲を活用した1575年(天正3年)の「長篠の戦い」や、1582年(天正10年)に織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」が起きた時代としても有名です。そして、本能寺の変の直後、1582年(天正10年)の「山崎の戦い」で明智光秀を討った豊臣秀吉は、織田政権の後継者としての地位を固め、1590年(天正18年)には天下統一を果たします。しかし、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康が頭角を現し、1600年(慶長5年)には全国を二分する「関ヶ原の戦い」が勃発。この戦いで勝利した徳川家康は1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任じられ、これにより、安土桃山時代は終わりを迎えました。

安土桃山時代年表

政権保持者 合戦/主な出来事
1573~
1583年
織田信長
(織田氏)
1573年 一乗谷城の戦い

宗三左文字」(そうざさもんじ)や「薬研藤四郎」(やげんとうしろう)などの日本刀を愛していたことで有名な戦国大名が「織田信長」です。数々の戦いで勝利を収めてきた織田信長が、領土を「近江国」(現在の滋賀県)、「若狭国」(現在の福井県南部)へと拡大することに成功した戦いが「一乗谷城の戦い」(いちじょうだにじょうのたたかい)でした。

詳細はこちら

1573年 小谷城の戦い

小谷城の戦い」(おだにじょうのたたかい)は、織田信長と「浅井長政」(あざいながまさ)の間で起きた戦いです。この戦いは、浅井家が滅亡するきっかけとなっただけでなく、浅井家に援軍を送った朝倉家を滅亡させる原因にもなりました。

詳細はこちら

1575年 長篠の戦い

1575年(天正3年)4月、織田信長が名実ともに天下人となった、歴史上非常に重要な合戦「長篠の戦い」(ながしののたたかい)が起こりました。織田・徳川連合軍が、戦国最強と言われた武田軍を相手に圧勝した戦いです。

詳細はこちら

1582年 本能寺の変

本能寺の変」は1582年(天正10年)6月2日、京都の「本能寺」に宿泊中の織田信長を、家臣「明智光秀」が襲撃した事件です。寝込みを襲われた織田信長は、防戦できないことを悟ると、寺に火を放って自害しました。なお、本能寺の変は日本の歴史上屈指の大事件として知られています。

詳細はこちら

1582年 太閤検地

太閤検地」(たいこうけんち)は全国の田畑を調査し、農作物の生産高を調べた上で、年貢の負担量を決める政策のこと。太閤とは「豊臣秀吉」を指します。太閤検地によって年貢を効率良く徴収できるようになっただけではなく、農民が土地から勝手に離れないようにすることにも成功しました。

詳細はこちら

1582年 山崎の戦い

1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で命を落とした織田信長。それを知った「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)は、織田信長の敵を討つために中国遠征を中断し、約20,000の全軍で京を目指しました。

そして約10日後の6月13日、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の境に位置する山崎において明智光秀と激突。退却を余儀なくされた明智光秀は、「坂本城」(滋賀県大津市)を目指して落ち延びていましたが、そののち命を落としました。

詳細はこちら

1582年 清洲会議

清洲会議/清須会議」(きよすかいぎ)は、明智光秀が起こした本能寺の変によって、自害した織田信長の後継者を決めるために開かれた会議です。代表的な出席者は、「柴田勝家」や「丹羽長秀」(にわながひで)、「池田恒興」(いけだつねおき)、そして、羽柴秀吉の4人が挙げられます。

詳細はこちら

1583年 賤ヶ岳の戦い

1582年(天正10年)6月13日に起こった「山崎の戦い」で、織田信長の仇を討った羽柴秀吉。清洲会議で織田信長の後継者争いをした柴田勝家と徐々に対立が深まっていき、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)にまで発展しました。

詳細はこちら

1583~
1586年
空白
1584年 小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)は、1584年(天正12年)3~11月に行われた、「羽柴[豊臣]秀吉」陣営と「織田信雄[おだのぶかつ]・徳川家康」陣営の間の戦いです。

詳細はこちら

1585年 四国平定

四国平定」(しこくへいてい)は、1585年(天正13年)6~8月にかけて、四国を舞台として起こった、羽柴秀吉と「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)の戦いです。四国を統一したばかりの長宗我部元親でしたが、同合戦により、わずか2ヵ月で土佐国(現在の高知県)のみを残して、その他の国を奪われることとなりました。

詳細はこちら

1586~
1598年
豊臣秀吉
1587年 九州平定

織田信長の死後、関白(かんぱく)にまで昇り詰めた豊臣秀吉は、日本全国の統一を成し遂げるために動き出します。当時、九州で勢力を強めていた「島津義久」(しまづよしひさ)の台頭を危惧した豊臣秀吉は、1587年(天正15年)九州に出兵し、島津義久ら九州諸将を降伏させました。これが「九州平定」(きゅうしゅうへいてい)です。

詳細はこちら

1588年 刀狩令

「刀狩令」は、武士以外の農民・僧侶などに、刀や(やり)といった武器の所有を禁止させた政策。しかし刀狩令は、武器の根絶を目的としたものではなく、兵農分離(へいのうぶんり)を促進し、一揆(いっき)を防ぐために実施されたと言われています。

1582年 文禄の役

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。貧しい農民から天下人にまで上り詰めた男の目は、日本国内に止まらず、海の向こうに向けられていました。そんな天下人が目を付けたのは明(みん:現在の中華人民共和国)。まずは明の柵封国(明を宗主国とした従属国)だった朝鮮に服属を求めますが、朝鮮は拒否します。

これを受けた豊臣秀吉は、朝鮮半島への出兵を決断。釜山(ぷさん)経由で、西国の大名を中心に編成した大軍を朝鮮半島に送り込んだのでした。

詳細はこちら

1597年 慶長の役

文禄の役」において明と交わした講和による休戦状態は長くは続きませんでした。講和内容を、両国の交渉担当者が通謀して自国に都合の良いように書き換えられた物だったからです。これに基づいて行われた和平交渉が上手く行くはずはなく、決裂。これを受け、豊臣秀吉は1597年(慶長2年)に西国(主に九州・中国・四国地方)の諸大名に対して「動員令」を発令。朝鮮半島に向けて約140,000人の大軍を送り込み、「慶長の役」が始まりました。

詳細はこちら

1598~
1600年
豊臣秀頼
1600年 関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」が起こりました。この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。

詳細はこちら

安土桃山時代の合戦歴史年表
SNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
注目ワード
注目ワード