1600~
1605年徳川家康
(初代将軍) |
- 1603年 江戸幕府とは
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1603年(慶長8年)、「徳川家康」が征夷大将軍に任命され「江戸幕府」を開きました。江戸幕府は、室町時代から続いてきた戦乱の世に終わりを告げ、265年におよぶ長期政権として君臨します。
厳しい大名統制により政治が安定したことで経済も発展し、文化も成熟。
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1605~
1623年徳川秀忠
(2代将軍) |
- 1614年 大坂冬の陣
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1614年(慶長19年)11~12月、大坂で豊臣軍と徳川軍が対峙する合戦が発生しました。「大坂冬の陣」です。開戦後、早々に大坂城(のちの大阪城)での籠城戦を選択し、当初は徳川軍と互角に渡り合っていた豊臣軍でしたが、徳川家康の狡猾な心理作戦に翻弄され、最終的には講和。
この講和により、外堀・内堀を埋め立てられた大坂城は「裸城」になってしまうなど、結果的に豊臣宗家滅亡への引き金を引いてしまったのです。
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- 1615年 大坂夏の陣
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1615年(慶長20年)4~5月。豊臣家と徳川家は、再び大坂の地で相まみえます。最も、大坂冬の陣とは違い情勢は徳川軍の圧倒的優勢。そのため、豊臣軍の兵達は玉砕覚悟の戦いとなりました。
「真田幸村」(真田信繁)ら豊臣軍の武将達が決死の突撃をするも衆寡敵せず。戦いに敗れた豊臣宗家は滅亡し、徳川家を頂点とした長期安定的な政権が本格化することになりました。
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- 1615年 武家諸法度
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「武家諸法度」(ぶけしょはっと)は、江戸幕府の2代将軍「徳川秀忠」が公布した全国の大名達に規範を示した法令です。3代将軍「徳川家光」の時代には「寛永令」(かんえいれい)が出され、「参勤交代」(さんきんこうたい)の制度化などが追加されました。
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1623~
1651年徳川家光
(3代将軍) |
- 1629年 踏み絵の導入
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江戸時代に入ると、幕府は鎖国政策を採ってキリスト教を弾圧するようになります。そのなかで江戸幕府は、キリスト教信者をあぶり出すため、「踏み絵」(ふみえ)と呼ばれる制度を作ったのです。
キリスト教信者にとって大切な聖画像などを踏ませ、踏めなかった人物を「キリシタン」と見なし、厳しい処罰を行いました。
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- 1635年 参勤交代
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参勤交代は、江戸時代にあった制度のひとつ。徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的とした制度であり、諸大名は1年交代で、江戸と領地それぞれに在住することが義務付けられていました。
参勤交代により社会秩序が安定した他、文化の発展や交通の発達など、多くの利点があった一方で、諸藩は大きな財政難に陥り、結果として江戸幕府崩壊の一因になったとも言われています。
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- 1637年 島原の乱
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1637年(寛永14年)12月11日から1638年(寛永15年)4月12日の間、日本の歴史上最大規模の一揆が発生しました。九州西部に位置する島原半島と天草諸島の領民が、藩の圧制や重税に耐えかね、キリシタン(カトリック教徒)迫害への不満も積み重なって、内戦を起こしたのです。幕末以前では最後の本格的な内戦となり、攻防は4ヵ月にもわたりました。
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1651~
1680年徳川家綱
(4代将軍) |
- 1657年 明暦の大火
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1657年(明暦3年)1月18日から約2日もの間、江戸の大半を焼いた大火災のこと。明和の大火、文化の大火とともに「江戸三大大火」と呼ばれています。
この明暦の大火で江戸城(東京都千代田区)は天守を含めた城構の多くを焼失し、そののち天守が再建されることはありませんでした。丁酉火事(ひのととりのかじ)、振袖火事(ふりそでかじ)とも呼ばれています。
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1680~
1709年徳川綱吉
(5代将軍) |
- 1685年 生類憐みの令
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天下の悪法と評された「生類憐みの令」(しょうるいあわれみのれい)は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)によって制定されました。1685年(貞享2年)以降、次第に具体化されて牛馬や犬、鳥類を始めとする生類(命のあるもの)の殺生を禁止したのです。
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- 1701年 元禄赤穂事件
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江戸時代において「仇討ち」(あだうち)は、武士に許されていた合法な制度であり、届け出さえすれば仇討ちを実行することが認められていました。「元禄赤穂事件」(げんろくあこうじけん)は、そんな江戸時代にあった仇討ちの中でも、多くの人に知られている事件のひとつです。
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1709~
1712年徳川家宣
(6代将軍) |
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1713~
1716年徳川家継
(7代将軍) |
1716~
1745年徳川吉宗
(8代将軍) |
- 1716年 享保の改革
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享保の改革は8代将軍「徳川吉宗」が主導した幕政改革。年貢を増やし、米価を調整することで、幕府財政の回復を目指しました。その他にも洋書の輸入を緩和したり、目安箱を設置し、幕政への意見を庶民から求めたりなど、様々な政策を実施。行政の改革も推進しました。
享保の改革により、幕政の財政は好転し、幕威も回復。しかし、重税や厳しい倹約令により、農民や町人の不満は募り、度重なる一揆が起きたと言われています。
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- 1732年 享保の大飢饉
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1732年(享保17年)に「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)が発生し、西日本の諸国は、甚大な被害を受けました。享保の大飢饉は、「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)や「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)と共に、江戸時代における三大飢饉のひとつに数えられているのです。
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1745~
1760年徳川家重
(9代将軍) |
- 1782年 天明の大飢饉
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天明の大飢饉とは、1782~1788年(天明2~8年)にかけて起きた大飢饉であり、享保の大飢饉、天保の大飢饉と並んで、江戸三大飢饉のひとつに数えられています。
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1760~
1786年徳川家治
(10代将軍) |
1786~
1837年徳川家斉
(11代将軍) |
- 1787年 寛政の改革
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寛政の改革は老中「松平定信」(まつだいらさだのぶ)が主導した幕政改革。飢饉へ備えるために備荒政策(米の備蓄や節約など)を行ったり、文化・風俗を取り締まったり、様々な倹約を徹底しました。
しかし厳しすぎる政策により、徳川家斉や庶民からも反発を受け、松平定信は失脚となります。
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- 1808年 間宮海峡の発見
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1808年(文化5年)、江戸幕府からの命を受けた北方探検家の「間宮林蔵」(まみやりんぞう)は、「松田伝十郎」(まつだでんじゅうろう)と共に「樺太」(からふと)へ調査に出て、シベリアと樺太の間に海峡があることを発見しました。
この功績を、長崎の出島に滞在していたオランダ商館の医師であり、日本とゆかりの深い「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」が称え、発見した間宮林蔵の名を冠して、「間宮海峡」(まみやかいきょう)を世界地図上に残したのです。
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- 1825年 異国船打払令
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日本において、江戸時代初期から鎖国政策を実施していた江戸幕府。しかし、江戸時代後期になると、アメリカやイギリスなど欧米諸国の船が日本近海に現れ、交易を求めて日本に接触。様々な事件が起こるようになります。そこで1825年(文政8年)に江戸幕府は、「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を発して、外国船の追放を図ったのです。
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- 1833年 天保の大飢饉
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江戸時代の日本の気候は寒冷で、たびたび冷害や洪水が起こったと記録されています。異常気象が原因で凶作となり、飢饉が起こることが少なくありませんでした。なかでも「江戸四大飢饉」のひとつと言われるのが天保の大飢饉。1833~1836年(天保4~7年)の間に連続的に飢饉が起こり、何万人もの大量の餓死者を出したと言われているのです。
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- 1837年 大塩平八郎の乱
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「大塩平八郎の乱」(おおしおへいはちろうのらん)とは、江戸時代後期の1837年(天保8年)に「大塩平八郎」(おおしおへいはちろう)らが大坂(現在の大阪府大阪市)で起こした反乱のこと。
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1837~
1853年徳川家慶
(12代将軍) |
- 1839年 蛮社の獄
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「蛮社の獄」(ばんしゃのごく)とは、1839年(天保10年)に起こった、対外政策として鎖国を続けていた江戸幕府の異国船打払令により、アメリカ船モリソン号が追い返された事件が発端となって起こった弾圧事件です。
蛮社の獄によって蘭学者の「渡辺崋山」(わたなべかざん)や「高野長英」(たかのちょうえい)などが犠牲となりました。
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- 1853年 ペリー来航
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江戸幕府が外国船の入船や交易を制限する鎖国政策を敷く中、突如「浦賀」(現在の神奈川県横須賀市)に現れた4隻の黒い戦艦。日本と通商を希望するアメリカから、武力により開国を要求した「マシュー・ペリー」が来航しました。
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- 1853年 明治維新とは
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1853年(嘉永6年)、アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が日本に開国を求めて浦賀に来航したことを発端に、徳川家による江戸幕府の統治体制が崩壊。1867年(慶応3年)、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、政権を天皇に返上する「大政奉還」を行い、1868年(慶応4年/明治元年)に、天皇を中心とする中央集権国家を目指した明治政府が誕生しました。
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1853~
1858年徳川家定
(13代将軍) |
- 1854年 日米和親条約
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「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)とは、1854年(安政元年)に江戸幕府とアメリカ合衆国によって締結された条約で、別名「神奈川条約」と呼ばれます。
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- 1858年 安政の大獄
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江戸時代末期は欧米の文化や影響が流入し、日本が大きく変わった時期です。特に、1853年(嘉永6年)にマシュー・ペリーの率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が日本に来航したことによって日本の政情は大きく変化し、天皇の勅許(ちょっきょ:天皇の命令)を受けないまま幕府の大老達が「日米修好通商条約」を締結しました。これを契機に幕府への反発が高まり、幕府は批判勢力へ大弾圧を行い、安政の大獄へと発展していきました。
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- 1858年 日米修好通商条約
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日本では1639~1854年(寛永16年~嘉永7年)まで200年以上にわたって鎖国政策が採られていました。鎖国政策とは、主にキリスト教国であるスペインとポルトガル人の来航を禁止すると共に、日本人が東南アジア方面に出入りすることを禁じた政策です。
しかし、1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結されたことにより鎖国は名実ともに終了しました。
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1858~
1866年徳川家茂
(14代将軍) |
- 1860年 桜田門外の変
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「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)は、尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を守るために外国勢を排除する思想を持った一派)の浪士が起こした大老「井伊直弼」(いいなおすけ)暗殺事件のこと。事件後、幕府の権威は失墜し、265年続いた江戸時代も終わりを迎えることになります。
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- 1862年 寺田屋事件
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「寺田屋事件」(てらだやじけん)は、1862年(文久2年)4月23日に、京都の旅館「寺田屋」で薩摩藩(現在の鹿児島県)の尊攘派志士が弾圧された事件です。薩摩藩主「島津忠義」(しまづただよし)の父「島津久光」(しまづひさみつ)は、幕藩体制の再強化を図る公武合体を目指していました。
しかし薩摩藩の過激派は、挙兵倒幕を企てようと寺田屋に集結。これを知った島津久光は藩士に粛清を命じました。そのあとも多くの志士を京都から追放。別名寺田屋騒動とも呼ばれています。
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- 1863年 薩英戦争
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「薩英戦争」(さつえいせんそう)は、幕末(江戸時代末期)に、薩摩藩とイギリス艦隊との間に起こった戦争のことです。
その引き金になったのは、1862年(文久2年)8月、当時薩摩藩主だった島津忠義の父・島津久光の大名行列が数百名の藩士達と江戸から薩摩へ帰る途中、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)にさしかかったところで、観光で川崎大師(現在の川崎市川崎区)に向かう途中だったイギリスの商人「リチャードソン」ら4人が、騎乗したまま島津久光の大名行列の中へ入り込み、列を乱したことに始まります。
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- 1864年 池田屋事件
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「池田屋事件」は、1864年(元治元年)6月5日に京都で起こった、「新撰組」による尊王攘夷派弾圧事件です。多くの浪士が殺害され、これにより明治維新が5年遅れたとも言われています。
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- 1864年 禁門の変
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禁門の変は、池田屋事件などによって京都における政治的な影響力を失った長州藩(現在の山口県)が、不利になった形成を立て直すため、京都御所(禁門)に攻め込んだ事件です。
御所を守る会津藩(現在の福島県)、薩摩藩と激しい戦闘の末、長州藩は破れ、長州藩の尊王攘夷派は壊滅しました。なお、蛤御門の周辺が激戦地であったことから、「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれます。
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- 1864年 第一次長州征伐
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「長州征伐」(ちょうしゅうせいばつ)とは、1864年(元治元年)と1866年(慶応2年)に江戸幕府が倒幕勢力の中心であった長州藩を処分するために出兵した出来事です。
代表的な戦いとなった1866年(慶応2年)の「第二次長州征伐」(だいにじちょうしゅうせいばつ)では、第14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が指揮を執り、約150,000の兵を引き連れて長州藩領のある「周防国」(すおうのくに:現在の山口県東部)、「長門国」(ながとのくに:現在の山口県西部)へ向け征討へ乗り出しました。
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- 1866年 第二次長州征伐
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「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)ののち、長州藩では倒幕を掲げる「改革派」が主流となり、これを知った幕府は藩主に江戸に出て説明するよう言い渡したり、詰問団を広島に送ったりなどをしましたが、長州側ははぐらかすばかりでした。
これにより、再び幕府は長州へと兵を送り、1866年(慶応2年)、第二次長州征伐が勃発。幕府軍は約150,000人、長州軍は約10,000人と、人数では圧倒的に長州軍が不利な状況でした。
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- 1866年 薩長同盟
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薩長同盟は、薩摩藩と長州藩が徳川幕府を倒す目的で結成した同盟のことです。池田屋事件や禁門の変などで窮地に陥っていた長州藩は、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊からも砲撃を受けます。その攻撃力を目の当たりにした長州藩では、攘夷派から倒幕派へ考えが変わりつつありました。
一方、1863年(文久3年)の薩英戦争でイギリスから砲撃をされていた薩摩藩も倒幕へ動き出すことに。そして、長州藩と薩摩藩がともに倒幕を目指していることを知った「坂本龍馬」(さかもとりょうま)と「中岡慎太郎」(なかおかしんたろう)は同盟を勧めます。
これにより、薩摩藩の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と長州藩の「木戸孝允」(きどたかよし)らは合意し、薩長同盟が締結されるのでした。
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1866~
1868年徳川慶喜
(15代将軍) |
- 1867年 近江屋事件
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近江屋事件(おうみやじけん)とは、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町にある醤油商「近江屋」で、暗殺された事件のこと。坂本龍馬はそれまで寺田屋を宿舎としていましたが、寺田屋事件で寺田屋が急襲されたため、1867年(慶応3年)11月3日に近江屋に移りました。その2日後、15日の夜に「十津川郷土」(とつがわごうし)を名乗る客が坂本龍馬を訪ねてきます。
この客こそが刺客であり、坂本龍馬と従僕の「山田藤吉」(やまだとうきち)を殺害。中岡慎太郎も傷を負い、11月17日に息を引き取りました。
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- 1867年 大政奉還/徳川慶喜
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大政奉還とは、1867年(慶応3年)10月に徳川幕府15代将軍・徳川慶喜が「統治権を返上する」旨を記した書面を朝廷に提出し、その翌日「明治天皇」から許可が下りるまでの一連の出来事です。
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- 1868年 戊辰戦争
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戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、1868年1月27日(慶応4年1月3日)の「鳥羽・伏見の戦い」から翌年の1869年6月27日(明治2年5月18日)の五稜郭の戦いまでに繰り広げられた旧幕府軍と新政府軍との戦いです。
鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍と新政府軍との戦い戊辰戦争の初戦であり、現在の京都市南区・伏見区にあたる、山城国 鳥羽・伏見で起こりました。
この戦いから1年4ヵ月もの間続く戊辰戦争は、その過程で江戸城の無血開城などを経て明治新政府を築く礎となったのです。
- 1868年 戊辰戦争 鳥羽・伏見の戦い
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鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍と新政府軍との戦いである戊辰戦争の初戦です。
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