一般に「鉄砲」と呼ばれる銃器類は、多くの部品からなる複数の装置で構成されています。これらの装置が正確に作動して、鉄砲が威力を発揮できるように、開発者は改良を重ねて精度を高めてきました。 こうした装置にはそれぞれ名称があります。火縄銃・大筒(おおづつ)・西洋式銃の各部位の名称ごとに、その構造や働きを解説しました。 詳しく知りたい部位名称をクリックすると、イラストや解説が表示されるので、鉄砲の構造やメカニズムを調べる事典のように活用していただけます。
火縄銃が日本に伝来した時期や経緯には諸説ありますが、1543年(天文12年)、種子島に漂流したポルトガル人によってもたらされたという説が一般的です。
その仕組みは、銃身内の火薬に点火し、急激に発生する燃焼ガスの圧力で弾丸を押し出すというもの。この原理は現代の鉄砲と同じですが、火縄銃は1発ずつしか発砲できず、撃つには次のような手順を踏まなければなりませんでした。
このように、火縄銃での攻撃には時間がかかりましたが、攻撃範囲と威力は刀剣や弓矢を上回っており、戦国時代さなかの日本に伝わると、わずか1年ほどで国産化され、多くの合戦に導入されました。
やがて戦国時代が終わり、戦のない江戸時代になると、火縄銃の需要は激減し、改良も停滞します。この時代には、武家が火縄銃を美術工芸品として愛蔵するようになり、国友の火縄銃はすぐれた機能美が、堺の火縄銃は豪華な装飾が好まれました。
この間、西欧では鉄砲の改良が進んでおり、幕末には、この進化した西洋式銃が日本に流入し、これに倣って火縄銃を改造した鉄砲が登場します。これらの改造火縄銃は、輸入西洋式銃と共に、幕末維新期に多発した内戦に投入されました。
そののち、明治時代には軍隊の西欧化が進み、軍用銃としての火縄銃は廃れましたが、猟銃としては昭和時代初期まで使われていたことが分かっています。
「大筒」(おおづつ)とは、戦国時代から江戸時代にかけて使われた大型の鉄砲で、火縄銃の製造技術を用いて作られました。大筒と火縄銃の区別は史料によって異なりますが、多くの場合、発砲する弾丸の重量が30匁(112.5g)を上回る物を大筒と呼びます。
大筒が開発されるより早く、室町時代の日本に伝来したとされる「石火矢」(いしびや)と呼ばれた大砲は、火縄銃とは構造が違い、砲弾の装填部が常に開口しており、ここから発砲に必要なガスが漏れるため威力に欠けました。
一方、大筒は銃身の密閉性が高く、威力はすぐれていたものの、命中率が低く、動く標的を狙うには不向きです。しかし、破壊力が強いため、城攻めや海戦で建造物や船を攻撃する際には活躍したのです。
大筒には、球状の弾丸だけでなく「棒火矢」(ぼうひや)と呼ばれる矢の形をした砲弾を発射するタイプもありました。棒火矢には火薬が込められており、撃ち込んだ先で火災を誘発する武器だったと考えられますが、実戦で使われた記録がほとんどなく、どれほど威力があったのかは分かっていません。
日本に伝わった火縄銃と、これを大型化した大筒の点火法は、燃えている火縄を火薬に押し付けるマッチロック式と呼ばれる方式でした。この動作を行う点火装置は「からくり」と呼ばれ、火縄銃と大筒の部位名称には、からくりを構成するパーツの名称が多くあります。
「火縄通しの穴」は銃床に開けた穴のことです。この穴に火縄を通して固定しました。
「火ばさみ」は、火縄の先端をはさむ金属製の器具です。引き金を引くと、バネやゼンマイの動力で火ばさみが落ちて点火薬に触れ、発火します。この火が銃身の内部に装填された火薬に引火して爆発し、このとき発生するガスの圧力で弾丸を発射しました。
「火皿」(ひざら)は点火薬を入れる容器です。火皿は火穴(ひあな)という穴で銃身の内部とつながっており、点火薬に点いた火は、この火穴を通って銃身内部の火薬に引火します。
「火蓋」(ひぶた)は先述の火皿を覆う蓋で、火皿に入れた点火薬を風雨から守り、また火縄の火が誤って点火剤に引火するのを防ぐ安全装置の役目がありました。なお、火縄銃を発砲する際に火蓋を開けることから、戦いを始めることを「火蓋を切る」と言います。
「弾き金」(はじきがね)は、からくり部のパーツのひとつで、バネまたはゼンマイです。バネはピンセットのような形の松葉バネで、この形状から「毛抜き金」(けぬきがね)とも呼ばれました。これが引き金に連動して火ばさみを動かし、火ばさみにはさんだ火縄が点火薬に触れる仕組みです。この仕掛けが、銃の外部に出ている外からくりと、内部に収納されている内からくりの2通りに大別できます。
「用心鉄」(ようじんがね)は、引き金を引くとまわりを囲む部品で、誤って引き金を引いてしまわないための安全装置です。これはトリガーガードとも呼ばれ、現在の銃にも付いており、発砲しないときは人差し指を引き金にかけず、用心鉄にかけておきます。
「地板」(じいた)は、からくり部の部品を銃身に装着するための金属板です。この機能に加えて、装飾の目的で地板に象嵌(ぞうがん)などの工芸を施した鉄砲もあります。
「カルカ」は、火薬を銃身に押し込むために使う棒で、銃身の清掃にも用いました。銃身の下部に、カルカを収納するスペースがあります。
「目当」(めあて)は、狙いを定めるための照準器です。銃身の2ヵ所に取り付けられており、銃身の手前に付けた物を「元目当」(もとめあて)または「前目当」(まえめあて)、銃口の付近に付けた物を「先目当」(さきめあて)と呼びます。その形状は様々で、三角型、富士山型、将棋の駒型などの頂点を尖らせるタイプや、溝を彫って焦点を合わせる目印にした筋型などがありました。
「巣口」(すぐち)は、火縄銃の銃口部分のことです。巣口の口径が大きいほど、大きく、重い弾丸を発射することができ、鉄砲の破壊力は高くなります。最も良く用いられた「小筒」(こづつ)と呼ばれる火縄銃の口径は8~13mm程度、これより大きい「中筒」(なかづつ)の口径は13~18mm程度、さらに大きい大筒の口径は26~84mm程度です。
西洋式銃が幕末の19世紀に日本にもたらされると、江戸幕府や諸大名は、火縄銃よりも威力や射程距離のまさる西洋式銃を競って導入し、当時、日本に接近していた西欧列強国の侵攻に備えました。
こうして急速に国内に出回った西洋式銃の筆頭が、オランダから輸入された「ゲベール銃」です。ゲベール銃の点火法は「燧石式」(すいせきしき)と呼ばれる、引き金を引いて火打石を叩いて発火させるタイプで、裸火を扱う火縄銃よりも確実でした。
また、ゲベール銃よりも命中率が高く、射程距離が長い「ミニエー銃」も輸入されるようになります。ミニエー銃は、銃身の内側に「ライフリング」と呼ばれる螺旋状の溝を彫ることで、弾丸に回転を与え、軌道を安定させて射程距離を伸ばした鉄砲です。
この他、世界初の連発銃「スペンサー銃」は、1868年(慶応4年/明治元年)に始まった旧幕府軍と新政府軍の戦い、「戊辰戦争」で両軍が導入しました。
これらの西洋式銃は当初、国防目的で輸入されましたが、幕末維新期に対外戦争はほとんど起きておらず、この時代に国内で多発した内戦に投入されたのです。
幕末の日本にもたらされた西洋式銃は、火縄銃よりも進化した点火装置を備えていました。
また、火縄銃が発砲のたびに銃口から火薬と弾丸を詰める「前装式」(せんそうしき)だったのに対して、西洋式銃のなかでも発展型の「後装式」(こうそうしき)には、銃尾側に開閉式の装填部があります。
さらに、連射が可能な西洋式銃が登場すると、複数の弾薬を装填できる機構を備えるようになりました。
このように西洋式銃は火縄銃と構造が異なっていたため、独自の部位と名称があり、その多くは現代の鉄砲にも受け継がれているのです。
撃鉄(げきてつ)は、ハンマーとも呼ばれる点火装置のパーツのひとつで、打ち付けることで火を熾(おこ)します。
17世紀に完成した、燧石式(すいせきしき)と呼ばれる点火法は、撃鉄に燧石(火打石)を取り付け、引き金を引くと、これが「当たり金」に打ち付けられて発火する仕組みです。
また、燧石式よりも進化した点火法、雷管式(らいかんしき)の鉄砲にも撃鉄は使われました。雷管式は、雷汞(らいこう)という燃えやすい化合物を雷管と呼ばれる容器に詰め、これを撃鉄で叩いて衝撃を与えて発火させたのです。
さらに進化した現代の鉄砲にも撃鉄は付いています。この場合は、雷管と火薬、弾丸を薬莢(やっきょう)という金属製の容器のなかに収めた一体型の銃弾を用い、これを撃鉄で叩いて雷管を発火させました。
「目当」(めあて)と呼ばれた照準器は、火縄銃と同様、銃身の手前に付けた「元目当」と銃口付近の「先目当」(さきめあて)があります。ただし、西洋式銃は火縄銃よりも射程距離が長くなっていたため、遠くの標的にも照準を合わせられる仕様に改良されました。
そのひとつが、先目当てが起こせるようになっている「ラダー型」で、高く起こすほど遠距離を狙えます。
「用心鉄」(ようじんがね)は、引き金を引くとまわりを囲む部品で、誤って引き金を引いてしまわないための安全装置です。これはトリガーガードとも呼ばれ、現在の銃にも付いており、発砲しないときは人差し指を引き金にかけず、用心鉄にかけておきます。
「カルカ」は、火薬を銃身に押し込むために使う棒で、銃身の清掃にも用いました。銃身の下部に、カルカを収納するスペースがあります。
ニップルは、雷管式の点火装置を構成するパーツのひとつです。形状は突起型で、ここに点火剤を詰めた雷管を装着しました。引き金を引くと、撃鉄が作動して雷管を叩き、この衝撃で発火したのです。
雷管式は、1世代前の点火法・燧石式よりも確実に点火できたのに加え、雷管が発火剤を風雨から守っていたことも強みでした。また、燧石式の点火装置を流用できたので、日本でも燧石式から雷管式への改造が盛んに行われたのです。
「遊底」(ゆうてい)は、後装式銃の銃尾に作られた開閉式の装置で、ここから弾薬を銃身に装填します。いくつかの型があり、右開きタイプは、その構造が刻み煙草を入れる「莨嚢」(ろうのう/ろくのう)に似ていることから「莨嚢式」と呼ばれました。この他、前方に開閉する「活罨式」(かつあんしき)、下面に付けたレバーで開閉する「底碪式」(ていがんしき)があります。
そのあと、複数の弾薬を自動的に給弾できる仕組みが開発されると、遊底から弾薬を装填することはなくなりました。このため、現代の鉄砲にある遊底は、発砲時にガスが漏れないようにブロックし、発砲後の空薬莢を排出する働きをしています。
弾倉(だんそう)は、弾薬をあらかじめ装填しておく部品で、鉄砲の本体に内蔵されているタイプと、着脱するタイプがあります。
19世紀にアメリカで開発され、幕末の日本にも輸入されたスペンサー銃は、7発連射ができる後装式銃で、次弾を送り出す仕組みを持つ弾倉を銃床に内蔵していました。この弾倉は、スプリングを備えており、その力で次弾を銃身内へ送り込み、また使用済みの薬莢を排出することで連射を可能にしたのです。