「舞草刀」(もくさとう)とは、平安時代の朝廷と蝦夷(えみし)の戦をきっかけに舞草派の刀工達によって作刀された刀剣です。東北に住む武士、京都の武士にも舞草刀は好まれ、各地に舞草派にまつわる逸話、伝承を残します。そして「直刀」から「湾刀」への変遷にかかわっていたと示唆されることから舞草派の鍛冶場跡は「日本刀発祥の地」としても有名。「五箇伝」(ごかでん)には属さないものの、名刀として名を馳せた舞草刀について詳しくご説明しています。
舞草派が誕生した東北地方は、奈良時代より蝦夷征伐がさかんに行われ、平安時代には奥州支配をめぐる源氏による「前九年の役」や「後三年の役」が起きた地域。舞草派は、こうした戦乱における需要を満たすため作刀を開始し、鍛冶集団として人々に周知されるようになりました。これが「舞草刀」のはじまりです。
その舞草派の工房があったと考えられるのが、現在の岩手県一関市舞草地区の観音山中腹に位置する「儛草神社」(もくさじんじゃ/まいくさじんじゃ)の周辺。儛草神社が鎮座する近くには、良質な鉄鉱石が採れる観音山と白山岳があり、その谷間に吹く強い風を「ふいご」のように活用していたと考えられているのです。
鍛冶場跡を示すように、一関市舞草地区では鉄滓(てつくず)や鉄片、焼けた形跡のある土など鍛冶に関する遺構(いこう:地中などから出土する昔の構造物)も発見されています。
舞草派の刀工は、鎌倉時代に著された「観智院本銘尽」(かんちいんほんめいづくし)など、数多くの刀剣書に記されています。これほど多くの人々が知る存在であり、おおよその活動時期も分かっているものの、舞草派の実態は今なお謎に秘められたまま。と言うのも現存する数少ない舞草刀には「舞草」銘が切られた作品はありますが、鎌倉時代以降の作風となるため舞草派の活動時期とは異なります。
岩手県平泉を本拠としていた鍛冶集団に「宝寿派」(ほうじゅは)があり、この一派の祖「文寿」(もんじゅ)は舞草派の流れを汲む刀工だと伝えられているのです。宝寿は文寿の子と伝わり、宝寿派当主は代々この名前を継いでいきます。
そして宝寿派は、現存刀の年紀銘などによれば平安時代末期から南北朝時代まで活動していたことが分かっているのです。このことから舞草銘のある刀は、宝寿派の刀工が入れたと推測されています。
現在、舞草派発祥の地である岩手県一関市では、舞草派が地元で活躍した鍛冶集団だとして研究が盛んに行われています。今はまだ、舞草派について分からないことの方が多い状態です。けれど、研究が進み史料や文献が発見されれば、刀剣史に大きな功績を残すこととなるでしょう。
舞草派には、その系統を受け継ぐ鍛冶集団がいくつか存在します。その代表格に「古備前派」 の「正恒」(まさつね)、「月山派」(がっさんは)、「相州伝」の刀工などが挙げられるのです。
古備前派の刀工・正恒は、父「安正」が舞草派出身だったと伝わります。その他にも月山派は、舞草派の刀工「鬼王丸」(おにおうまる)が出羽国(現在の山形県・秋田県)月山に移住して開いたと考えられているのです。
明治時代に制定された美術家や工芸家の顕彰制度にて初代帝室技芸員のひとりとして「月山貞一」(がっさんさだかず)が任命されるなど、月山派は現在まで続く刀匠一門でもあります。
そんな月山派の地鉄(じがね)は、木目が波打つような「綾杉肌」(あやすぎはだ)が特徴です。宝寿派の刀にも月山派と同様に綾杉肌が見られることから、両者には交流があったと考えられています。
最後に、五箇伝にも数えられる相州伝は、鎌倉幕府のお膝元となる相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で興った鍛冶集団です。
奥州合戦のあと、全国へ散り散りになった舞草派刀工のなかには、源頼朝の命令で鎌倉に移住した者もいたと伝わります。
相州伝自体が、山城国(現在の京都府)や備前国(現在の岡山県東南部)などから移住した優秀な刀工、古くから鎌倉で鍛冶を行う刀工らが融合してできた流派です。
舞草派の刀工達もそうやって鎌倉の鍛冶として一体化していったと考えられます。移住した舞草派の刀工が鍛冶を行った地を、山之内本郷(現在の神奈川県横浜市)と言い、東北地方の土着信仰による「アラハバキ神」を祀る祠などが今も残されているのです。
「平治物語」(へいじものがたり)は、1159年(平治元年)に起きた「平治の乱」の出来事を記した軍記物語です。平治物語には、源氏に伝わる宝刀「髭切」(ひげきり:[鬼切安綱]とも)は「奥州の住人、文寿が作刀した」と書かれています。
しかし髭切が登場する最も著名な軍記物語「源平盛衰記」(げんぺいじょうすいき:[平家物語]の異本)の別巻「剣巻」(つるぎのまき)では、「源満仲」(みなもとのみつなか)が刀工「安綱」(やすつな)に作らせたとあるのです。
源平盛衰記が書かれた鎌倉時代、安綱と言えば伯耆国(ほうきのくに:鳥取県中西部)出身の古刀を代表する名工として語られる人物。平治物語では、舞草派がこの安綱と並んで似たような伝承を持つことは、当時から舞草刀が名刀として一般的だったことを示しています。
「義経記」(ぎけいき/よしつねき)は、南北朝時代から室町時代初期に成立した軍記物語となり、源義経と家来達との人間模様を描いた作品です。源義経の配下「佐藤忠信」(さとうただのぶ)の最期の場面に舞草刀は登場します。
源義経が兄・源頼朝と決別し大和国吉野(現在の奈良県吉野郡)に逃れたなか、佐藤忠信は主人の囮(おとり)になるため京都に潜伏。隠れていたところを源頼朝の追手に襲撃され、佐藤忠信は自決を決意し腹を斬ります。
この場面で佐藤忠信は「あはれ刀や、舞房に誂へて、よくよく作ると伝ひたりし効あり。腹を切るに少しも物のさわる様にもなきものかな」と語っているのです。 「舞房」とは「舞草」のことになります。佐藤忠信は死の間際にありながら、刀の斬れ味の良さに少しも腹を斬っている感覚がないことに感動し、さすがは舞草刀だと称賛しているのです。
佐藤忠信は、もともと奥州藤原氏に仕えていた武士だったことから、舞草刀を所持していたとしても不思議ではありません。また、舞草刀が京都を中心とした畿内でも、斬れ味の良い刀として知られていたことを示す一場面でもあります。
舞草刀は、刀剣史や逸話、伝承としてその名を刻むものの依然として謎の多い鍛冶集団です。しかし奥州刀として、平安時代の武士達からも人気が高く、後三年の役で活躍した「源義家」(みなもとのよしいえ:源頼朝・源義経の高祖父)も好んで所有しました。
本刀は、「一関市博物館」(岩手県一関市)所蔵となる、舞草銘の切られた最古の作例となります。刃文は直刃(すぐは)、物打(ものうち)はやや二重刃交じり。匂口(においぐち)は沈みごころに、刃縁(はぶち)に沿って映りが入ります。
地鉄は大板目、茎(なかご)は生ぶ茎。茎が槌目(つちめ:槌で叩いたような凹凸模様)仕立てとなっているところに舞草派の特色が見られますが、全体は鎌倉時代後期の特徴を現した姿となっています。